展覧会場のタンバリン・ギャラリーのブログで紹介された「雛展」報告です。
よろしかったらごらんください。
http://tambourin-gb.blogspot.com/2012/02/blog-post.html
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6時起床。忠犬同様のパジェロミニにバアバの作品をぎゅうぎゅう詰めに、ついでにバアバも押し込み、展覧会初日の朝、青山のタンバリン・ギャラリーに搬入しました。11時の開場ぎりぎりにどうにか展示を終えたところに最初のお客様が。
若い奥様とお母様がきて熱心に作品を観てくれています。バアバがごあいさつの声をかけると、次男の嫁の村椿菜文が書いた「内藤三重子さんのこと」を読んで興味をもってくださった娘さんが女児誕生で、ご主人のご両親が山口から上京されるのに合わせてお雛様を飾りたいと、母様と作品を見に来てくださったとのことです。

長い時間をかけて丁寧に作品を観てくださって、「これにしますと」小さな内裏雛を選ばれました。そして「開場でいちばん立派な三段飾りのセットにしようか随分迷ったのです。援助するから母もこれにしてはと言ってくれたのですが、いまの私の力に合ったものにしたかったのです。できればそのうち三人官女や五人囃子を追加して作っていただくことって可能でしょうか?」と言われます。
バアバは「わー、素敵なお話。ぜひご協力させていただきます!」、これは責任重大、長生きしなくては、生きがいをいただきましたと二つ返事です。
お客様の方も、そうすればお雛様とながく一緒だけではなくて、作者とも長いお付き合いができてうれしいですと、これもうれしいお言葉。
昔はあたりまえで、いまはなくなってしまった作り手と買い手のこのような関係、「うれしいね」とジイジ。
バアバの疲れも吹っ飛んだようで、よい展覧会になりそうです。
内藤三重子の「雛展」1月31日(火)〜2月5日(日) TAMBOURIN GALLERY (http://tombourin-gallery.com)

バアバこと内藤三重子の「雛展」が近づきました。
バアバがお雛さまをつくり始めて12、3年ほどでしょうか。最初は流木の胴体にアイスクリームのスティックを手足にして、手持ちの手拭でつくった着物を着せて、初の女孫のためにつくりました。それを見た次男の友だちにせがまれて翌年娘さんのためにつくり、またそれが次のリクエストに繋がり・・・といった具合にだんだん数が増えて、毎年展覧会をするようになりました。鎌倉や長岡の何カ所かで展示していただいていますが、幸か不幸かどれも人手に渡って、結局手許にはバアバのお雛さまは一体も残っていないのです。

最初の雛をつくった孫もいまはバトミントンの部活に明け暮れ、よしもとばななを愛読する中学生。バアバの雛づくりもいまやベテランの域に達したかというと、必ずしもそうではないようです。
毎年梅雨が明ける頃からお雛さまにかからなくてはと言い始めて、実際に手が動き始めるのが秋。桂の角材で頭を彫り、小さな手足を何組もつくりますが、毎年少しずつ形が異なるのです。同じものができないのではなく、つくらないようにしている風なのです。やがて長年人からいただいたり集めた古布を押し入れから出して眺めて過ごし、江戸期の布を観てはやはり古い布はいいわねぇとため息をつくのです。お雛さまの着物づくりにはとても長い時間をかけ、目が悪くなったとか歳ねぇとか言いながら、着せ替え遊びをする少女のように楽しんでいるように見えます。
この間ジイジはなす術も無く、これで会期に間に合うのかとハラハラするばかりですが、ただ分かってきたのは、バアバのお雛さまの人気は、いまだに最初のお雛さまをつくるときの作者のためらいや逡巡のような趣をわずかに留めていて、どこかにただよう未完成の初々しさみたいな魅力から生まれると感じるようになりました。それはあたかも人のチャームが完全無欠な美からではなく微かな欠点から生まれるように。
本人は「上手につくろうと、いつも思っているのだけど」言っておりますが・・・
展覧会のご案内
内藤三重子の「雛展」1月31日(火)〜2月5日(日) TAMBOURIN GALLERY (http://tombourin-gallery.com)

前回に続いて景観についてもう一言・・・
誰だったか、何処でだったか「日本人は美しさを指向するすばらしく繊細な感性をもっているが、同時に醜いものに対して恐ろしく鈍感だ」という外国人の言葉を読んだ記憶があります。
花鳥風月を愛で、町の普通のオジさんオバさんが身のまわりの些細な自然の美に目と心を向けさらりと五七五の短詩を詠む。一方で、窓には布団や洗濯物がぶら下がり、街には看板と電線がところ構わず醜く氾濫していても誰も文句ひとつ言わないというのです。
いまHAND & SOULの店先で起こっている周辺の変化を見ていて、ついこの言葉を思い起こさずにはいられません。
主のいなくなった古いお屋敷が取り壊され、分割分譲宅地となって、どうして許可が下りたのか不思議なほど狭い敷地一杯に住宅の建設が始まります。これらの新築家屋が環境を醜くするか美しくするか、それはまだ結果が出たわけではありませんが、ひたすら後者であって欲しいとハラハラしながら願うばかりです。
しかしもう結果が出ている部分もあります。それは道路です。建設のための重機が入り、水道管、ガス管工事で道路が掘り返されます。それも水道工事が終わって埋め戻されると、今度はガス工事で掘られるのです。4軒の家が建つとすると同じことが4回繰り返されるのです。

このブログを書いている時点で4軒のうち3軒の工事が進んでいますが、周りの道路は写真のような有様です。
以前はすっきりした舗装道路だったところがご覧のような姿になり、もうこれが原状復帰されたり化粧されることはないでしょう。なぜならこんな道路は日本中いたるとことにあるのですから。みんな馴れっこになってしまって、このような道を見ても怒る人はいません。
しかし、人の家の廊下の板を剥がして、全く異なった素材や色の板で補修して、おまけに落書きまでして、サゴメンイの一言も言わないでは済まないはずです。ところが天下の公道ではこれが許されているのですから、外国人から「醜さに鈍感」と言われても仕方がありません。
路上のパッチワークアートのコンクールならかなりいい線いくでしょうが、高い文化の香りと匠の技で世界遺産の登録を目指す鎌倉でこんなことが許されてもいいのでしょうか? 市長さん。

テレビのBSチャンネルが増えて、各地への旅行番組を選んで観ることができるようになりました。
海外へ出ることがめっきり少なくなったこの頃の楽しみのひとつです。
そんな番組を観て感じるのは、欧米とくにヨーロッパの街の美しさです。この現代によくもこんなに美しい景観を保っていられるものだと感心することがしばしばです。水も緑も豊かな日本の自然は世界に屈指ものですが、街が美いと感じることは極まれです。
人の生活が街を美しくするとはどういうことなのか、街を美しくする人の暮らし方というのがあるのだろうか、長い間この答えを見付けたいと思っていました。ところがこんな疑問に目からウロコの映像に出会ったのです。
それは先日観た「ペリグー」というフランス南部のボルドー近郊の街を探訪する番組でした。この地はフォアグラの産地としてグルメにはよく知られているようですが、近くにカトリックの聖地があることで巡礼の街道町として古い歴史を保つ観光地でもあります。
そんな町中をカメラが探っていくなかで映し出したのが小路地の石畳です。中央の敷き詰めた石の間に小さなホタテ貝の形のレリーフが埋め込まれてます(写真)。その金属のレリーフは長年にわたって人馬や車に踏まれ、擦られツヤツヤしていて、地面に埋め込まれた街のアクセサリーのようですが、それはここが巡礼路であることを示す道路標識なのです。
えッこれが道路標識!なんと美しい道路標識なのだろう!

一般的に道路標識といえばまずは見やすく、老人でも子どもでも間違いのないように解り易くなければならないとされています。自動車道路ともなると高速の移動中にも視認できるようにと相当の大きなものになります。誤解のないようにとの老婆心か親切心からか、国で設置するもの、市で設置するもの、私製のものも混ざって各種の標識が立ち並びます。その上サイン類としては、さらにその何十倍、何百倍の一般の商業看板がこれ見よがしに街中に氾濫しているのですから、これらがの日本の街の姿を形づくっているといっても大げさでないくらいです。
それに比してペリグーの貝型の標識のなんと慎ましやかなことか。これでは見つけにくいとか、解るだろうか?といった批判はいろいろできますが、これが何百年もにわたって実用されてきたという事実はとても重いと思うのです。
そもそも標識やサインというものは、その場所、その道に不案内の人のためのもので、そこで生活している人にとって必ずしも必要なものではありません。言い換えると、人は常にたまたまにそこを訪れるよそ者のために設けられた標識類によって、古来から存在しているその地の景観を汚されるという皮肉のなかで生きているということでもあるのです。
ペリグーの貝型標識にはこのような皮肉を寄せつけない古人の英知の存在を感じますし、何でも解り易ければよい安全が第一といった短絡的な価値基準を超えた人の知的能力への信頼、先人の歩みを大切にするこころ、そしてなによりも街の美しさへの敬意を感じます。考えてみると日本でも昔は一里塚や、家の入り口に石を一つ置いて立ち入り禁止の印にするといった周囲の環境に美しく溶け込む標識のアイディアがありました。
細かくこころを砕いたり、頭や時間や手間をかけるより簡単で解り易い方がよいとする態度が、識字率も教育程度も世界トップレベルの日本で大手を振っているというのは、もう一つの皮肉というよりほかありません。
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