HAND & SOUL

「不思議」


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前回の「砂茶わん」のブログで何か肝心なことを書き落としているように感じてモヤモヤしていました。

貝という下等な生物がベテランの陶工も顔負けの美しい造形をすることは驚きではありますが、このような不思議はなにも早朝に海岸まで行かなくてもいくらでも身の回りに転がっていることに気づきます。

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庭にゴーヤを1本植えました。芽が出てツルが伸びはじめました。支え棒を立てないでいたらツルは頼りなげに伸びてやがて20センチほど離れたシュロの幹に向かい始めました。いまツルはシュロの一番上まで伸びて、今度は隣の椿に向かいつつあります。ゴーヤには目があるか目に代わる不思議なセンサーを備えているとしか考えられません。
1本のチューリップが細い茎の頭にあんな大きな花をつけて強風にも耐えて立っていられる姿には、技術王国日本の粋を集めて作った東京スカイツリーも太刀打ちできないでしょう。
わたしたち日本人は昔からこのような不思議や自然の驚異を八百万(やおよろず)の神として素直に敬意をもって受け入れ、それらを祭り、楽しみ、文化としてしまうところがります。

ところがつい最近不思議の「不」をとった「思議」という言葉があることを知りました。
鈴木大拙の「東洋的な見方」(岩波文庫)の一節です。
「思議の世界と不思議の世界と、この二つがあることを知らねばならぬ。思議の世界は知性の世界である。知性の特性は、何でもを、まず二つに分けて、それから考え出すのである。」
大拙は、思議の世界は物事を分析し、白黒、正邪、善悪、をはっきりさせる西洋の世界観であって、それに対して物事を分けないで両方合わせ呑むのが東洋の世界観であると言っています。思議の世界からユダヤ教・キリスト教が生まれ、サイエンスが生まれ、不思議の世界から東洋的仏教思想が生まれたということのようです。


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夏というと昔は活発だったお化けや幽霊の存在も昨今はすっかり影が薄くなってしまいました。
普段西欧的現代生活を謳歌しているわれわれも、たまにはこころの奥に保持している東洋的スピリッツを取り出して、「不思議」とじっくり向かい合ってみるのも夏を楽しむ一策ではないでしょうか。


絵:お岩さん 葛飾北斎「百物語」
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by love-all-life | 2010-07-22 10:39 | 文芸・アート | Comments(0)