HAND & SOUL

春はすぐそこ

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辻々の梅の花が日に日に数を増して、新たな命のドラマの幕開けのチャイムの役割を演じています。


植物好きの孫娘が「これとって来た」と手のひらを開くと小さなフキノトウが二つ入っていました。
隣地の空き地で摘んできたというのです。新潟にいた頃に山古志あたりの里山でとったピンポン球ほどもあるふっくらとしたフキノトウとは比べ物にならないくらい小ぶりの貧弱なものですが、それでも「へー、やっぱり春だね」とからだの中の冷気をフッと吹き消してくれる効果はありました。

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定期昇給や移動といった業務日程や、卒業式や入学式などのカレンダー上の学事とも縁がなくなった分、花や虫などの営みが身近に感じられるようになって3年が経ちます。以来この時期になると、毎年今年こそはと一瞬力んでみるのが庭づくりです。

ところがいざ行動を起こすと、猫の額ほどの土を耕すにも一汗ではすまないほどの汗をかき、植えた草花の生長のもどかしさにいらいらし、開花の時期になっても一向に当初イメージしたような景色にはならず、よその花壇を恨めしく眺め、秋には落胆と反省の日々です。
体力の問題は別にするとしても、土づくりに失敗したのか、肥料が足りなかったのか、種類を誤ったか、いやむしろやり過ぎではなかったか、考えてみれば剪定ということを殆どしていなかったな、労力を惜しむくせに殺虫剤を使わず有機栽培をなどと目論んでみたが、いっそのことじゃんじゃん使ったほうがよかったのではないか・・・などわからないことだらけです。要はちゃんとした知識もなしに、労力を惜しみ、結果のイメージだけを限りなく膨らませていたのだというのが結論で、これも毎年同じです。
とは言いながら、いま手にしているありあまる時間と僅かな庭の地面から得られる贅沢といえば園芸にまさるものはないと思い返して、今年もカレル・チャペックの「園芸家12ヶ月」を書棚から引き出します。

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そもそも、「園芸家12ヶ月」を園芸のガイドブックにすること自体に問題があるかもしれません。というのも、以前小ブログで紹介したことがありますが、チェコの国民的作家であるカレル・チャペックが、自宅の裏庭での体験から、園芸家というものがいかに自分勝手で、自虐的で、けなげで変な人種かを皮肉たっぷりのユーモアに満ちた文章で綴ったそれはそれは面白い本です。あまり面白過ぎて園芸をすることを忘れてしまうほどです。
1月から12月まで、園芸家が何をするかが書いてありますが、2月のところを開くと、
「園芸家にとって、二月は一月の作業のひきつづきだ。・・・」とあって、2月になって「そろそろ園芸でも」という発想そのものがすでに手遅れであることを思い知らされます。

もう少し抜粋すると、
「できあがった庭を、はたからぼんやりながめていたあいだは、園芸家というものは、花の香に酔い、鳥の啼きごえに耳をかたむける、とても詩的な、心のやさしい人間だと思っていた。ところが、すこし接近して見ると、ほんとうの園芸家は花をつくるのではなくって、土をつくっているのだということを発見した。」
「園芸家というものが、天地創造の始めから、もし自然淘汰によって発達したとしたら、無脊椎動物に進化していたにちがいない。何のために園芸家は背なかをもっているのか?ときどきからだを起こして、『背なかが痛い!』と、ためいきをつくためとしか思われない。」
「せめて、もう一寸でいいから背が高くなりたいと思っているひとがいるが、園芸家はそういう人種ではない。それどころか、彼は、からだを半分に折ってしゃがみ、あらゆる手段を講じて背を低くしようとする。だから、ごらんのとおり、身長1メートル以上の園芸家は、めったに見かけない。」

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ね、こういう警句を読んでいると、園芸家でいるより読書家でいたほうが得策に思えるでしょ?
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by love-all-life | 2011-02-09 14:44 | 文芸・アート | Comments(0)