HAND & SOUL

HAND & SOUL「モノ」がたり 98 <言葉なしで見る>

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バアバがお客さんからの注文でフリースを素材のベビー服をつくっていたら、その横で孫たちが、余ったフリースの端布で遊んで絵をつくりました。
もう5年ほど前ですから女の子のHが小4年、男の子のRが小2年だったでしょうか。バアバが使い残した切れ端の布で無心に遊んだ結果は、「おッ、かわいいね」と思わずこちらの顔がほころぶ作品でした。もちろん彼らに作品をつくっている気負いも意識もありません。その証拠に半時もしたらつくりかけのモノを放ったらかして別の遊びに興じます。
5年たった今、もはや彼らが同じような「かわいい」作品をつくることはなく、もっぱらスマホの画面に見入って一日の多くの時間を費やしています。

幼稚園児や小学校低学年児童の絵画に見られる、大胆な色づかいや、大人には思いもかけない表現の発想というのはどこから生まれるのでしょうか。
多分それは生まれてくるというより、人はみな生まれつきそういう能力をもっていて、歳とともに失われていくという方が正しいようです。
小林秀雄は、大人から瑞々しい感性が失われてしまうのは、言葉でモノを捉えるからだと言います。何かを、あッ、美しいなと感じた次の瞬間に、「なんだ、スミレか」と気づき、その正体があきらかになった途端に最初に開いた感動のドアは閉じてしまうというのです。つまり理性が感性を妨げるということです。
幼児のように言葉の邪魔が入らないまま素直に花を見続けることは大人には極めて難しいことで、画家は、大人になっても、幼児のように花を見ることができる人なのだと言っています。

とうが立ってしまった大人であり、画家でもないジイジとしては、幼児のように素直な気持でモノづくりをしたいと念じても、絶望的にならざるを得ないわけですが、せめて「虚心で見る」眼をなんとか維持したいものだと思っています。さりげないモノ、なにげないモノ、誰もが見過ごすモノ、みなが汚いと避けるモノ、いわゆる「美しい」とされないモノのなかに隠れたダイヤモンドに気付く「眼」を持っていたいと思うのです。

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というわけで、身内の作品をダイヤモンド呼ばわりするつもりはさらさらありませんが、孫がむかし何気なくつくった「かわいい」布の貼り絵を、孫だからというのではなく、「どうです、なかなか面白いでしょう」と、見てもらいたいと思いました。そこで写真にとって、ちょっと文字を入れて(このへん、大人の理屈づけから抜け出ていませんが)、Tシャツにプリントしてみました。
これって、やっぱり親馬鹿ならぬ、ジジ馬鹿ということになるんだろうなぁ。
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by love-all-life | 2012-10-30 10:27 | 「モノ」がたり | Comments(0)