HAND & SOUL

「苦」あれば、「楽しみ」あり。

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本を読んでいて「『楽する』ことと『楽しむ』ことは違う。」という言葉に出会いました。
う〜ん、なるほど。
親類のように感じていた「楽(らく)」と「楽しい」。改めて見つめ直してみるとずいぶん違いがあるのに気付きます。
比べてみると、「楽する」というのは、「なにも苦労せず、嫌な状況から解放されている」というような感じでしょうし、一方、「楽しむ」というのは、 一般的には「好きなことをして満足を感じる」ことでしょう。
片や「なにもしない」、もう一方は「なにかする」、片や「非生産的」、もう一方は「生産的」というように、言葉の意味することが真反対といえるほど隔たっいてるのは面白いことです。

原始時代の人間は、生きるに必要な衣食住を得るための苦役に明け暮れていました。そのうち苦役の一部を家畜に担わせ、さらに道具を進歩させるとこで苦役から大幅に解放され、次第に「楽」な暮らしができるようになり、現代では科学技術の発達のお陰で、庶民も昔の王侯貴族も及ばないような「楽」な暮らしをしています。
結構な話といえばたいへん結構なことではありますが、果たして結構ずくめな話かといえばいくつかの疑念が湧いてきます。
辛い苦役からの解放を求め来たり、すでにその大部分が成し遂げられているともいえる現代でも、「楽」は望ましいこととして、まるで正義であるかのように、一層の「楽」を追求するのは果たして好ましいことなのだろうかという疑念です。
また、辛いことやリスクはできるだけ避けて、「何もしない」ことが「楽」であり、より「便利」なことが「楽」であるとすれば、これは社会にとって、地球にとって大いに反省すべきことではないかという危惧です。

自分自身がリタイアして、まぁいわゆる「楽」な身分になって、「自由」になったという実感はありますが、「楽」=「楽しい」という感じを抱いたことはありません。
考えてみると、世の中の大抵の「楽しみ」は「苦しみ」があってのことではないでしょうか。趣味でも、スポーツでも、人生の大きな楽しみとなるようなことには、その前提として必ずといってもいいほど「苦しみ」がついてきます。
苦しい思いをしないで手に入れられる楽しみなんて知れたもので、苦しみが大きければ大きいほど、得られる楽しみも大きいということは誰でもが知っていることです。
「楽」が続くという一見好ましい状態も、それがいずれ「苦しみ」になっていくという感じをもつ高齢者は少なくないと思います。
それは獲得した「楽」ではなく、与えられた「楽」であるせいかもしれません。しかし、長年ストレスの多い勤め人がやっと苦役から解放されて得る「定年後」は、いわば獲得した「楽」でもあるはずですが、それでも早晩ぶらぶら暮らすことが「楽」ではなく「辛いこと」に変ってしまうのです。

自分が天から授かった己の身体的能力、精神力、知力を使わずに休ませておくというのは決して「楽」ではないのです。
身体能力、精神力、知力を成長させようとすれば、そこにはなにがしかの努力が必要ですし、努力にはそれなりの苦痛が伴うものです。しかし苦痛を克服して得られる成果には必ず「楽しみ」がついてくるのです。
こうした感じを老人の戯言としないで、若者に真剣に向かい合って欲しいと思います。
このような「楽しみ」こそが人生を豊かにしてくれる「生きがい」というものだと思うからです。

80才の三浦雄一郎さんの快挙は、「楽」を拒否することで手に入れたまさに究極の「楽しみ」でしょうね。


写真:ミウラ・ドルフィンズ
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by love-all-life | 2013-06-01 23:24 | 時事・社会 | Comments(1)
Commented by sola-1-sola at 2013-05-30 19:46
ひさしぶりの更新嬉しく拝見致しました。
この「楽」と「楽しむ」について私も同じことを考えたことがありました。
同じ文字で似た響きなのに、言葉の持つ意味の違いに驚いてまた
同じように「楽しむ」ということの意味を考え、苦しむことは決して嫌なことだけではないと知って嬉しく感じたのですが、それでも、「苦」の最中はやっぱり逃げたい時もあります。まだまだですね。
三浦さんの快挙、同じ国民として無意識に胸が前に出てしまいます。すばらしいニュースでした。