HAND & SOUL

2013年 06月 01日 ( 2 )

「苦」あれば、「楽しみ」あり。

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本を読んでいて「『楽する』ことと『楽しむ』ことは違う。」という言葉に出会いました。
う〜ん、なるほど。
親類のように感じていた「楽(らく)」と「楽しい」。改めて見つめ直してみるとずいぶん違いがあるのに気付きます。
比べてみると、「楽する」というのは、「なにも苦労せず、嫌な状況から解放されている」というような感じでしょうし、一方、「楽しむ」というのは、 一般的には「好きなことをして満足を感じる」ことでしょう。
片や「なにもしない」、もう一方は「なにかする」、片や「非生産的」、もう一方は「生産的」というように、言葉の意味することが真反対といえるほど隔たっいてるのは面白いことです。

原始時代の人間は、生きるに必要な衣食住を得るための苦役に明け暮れていました。そのうち苦役の一部を家畜に担わせ、さらに道具を進歩させるとこで苦役から大幅に解放され、次第に「楽」な暮らしができるようになり、現代では科学技術の発達のお陰で、庶民も昔の王侯貴族も及ばないような「楽」な暮らしをしています。
結構な話といえばたいへん結構なことではありますが、果たして結構ずくめな話かといえばいくつかの疑念が湧いてきます。
辛い苦役からの解放を求め来たり、すでにその大部分が成し遂げられているともいえる現代でも、「楽」は望ましいこととして、まるで正義であるかのように、一層の「楽」を追求するのは果たして好ましいことなのだろうかという疑念です。
また、辛いことやリスクはできるだけ避けて、「何もしない」ことが「楽」であり、より「便利」なことが「楽」であるとすれば、これは社会にとって、地球にとって大いに反省すべきことではないかという危惧です。

自分自身がリタイアして、まぁいわゆる「楽」な身分になって、「自由」になったという実感はありますが、「楽」=「楽しい」という感じを抱いたことはありません。
考えてみると、世の中の大抵の「楽しみ」は「苦しみ」があってのことではないでしょうか。趣味でも、スポーツでも、人生の大きな楽しみとなるようなことには、その前提として必ずといってもいいほど「苦しみ」がついてきます。
苦しい思いをしないで手に入れられる楽しみなんて知れたもので、苦しみが大きければ大きいほど、得られる楽しみも大きいということは誰でもが知っていることです。
「楽」が続くという一見好ましい状態も、それがいずれ「苦しみ」になっていくという感じをもつ高齢者は少なくないと思います。
それは獲得した「楽」ではなく、与えられた「楽」であるせいかもしれません。しかし、長年ストレスの多い勤め人がやっと苦役から解放されて得る「定年後」は、いわば獲得した「楽」でもあるはずですが、それでも早晩ぶらぶら暮らすことが「楽」ではなく「辛いこと」に変ってしまうのです。

自分が天から授かった己の身体的能力、精神力、知力を使わずに休ませておくというのは決して「楽」ではないのです。
身体能力、精神力、知力を成長させようとすれば、そこにはなにがしかの努力が必要ですし、努力にはそれなりの苦痛が伴うものです。しかし苦痛を克服して得られる成果には必ず「楽しみ」がついてくるのです。
こうした感じを老人の戯言としないで、若者に真剣に向かい合って欲しいと思います。
このような「楽しみ」こそが人生を豊かにしてくれる「生きがい」というものだと思うからです。

80才の三浦雄一郎さんの快挙は、「楽」を拒否することで手に入れたまさに究極の「楽しみ」でしょうね。


写真:ミウラ・ドルフィンズ
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by love-all-life | 2013-06-01 23:24 | 時事・社会 | Comments(1)

HAND & SOUL「モノ」がたり 105 <5月の花物語>

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「春の東雲のふるえる薄明に、小鳥が木の間で、わけありそうな調子でささやいている時、諸君は彼らがそのつれあいに花のことを語っているのだと感じたことはありませんか。」


岡倉覚三(天心)は、『茶の本』(村岡 博訳)の「花」章の冒頭の一節にこのように述べて、人は花とともに祝福され、悲しみ、花とともに飲み、食らい、歌い、踊り、戯れ、花からの多くのものを授かる一方、花の命を奪うこで成り立つ花と茶道の関係について、夢のような美しい文章で綴ってます。


4月の桜から始まる花の響宴は5月なって一層賑わいを増します。
この季節、スーパーやホームセンターの店先にこれ見よがしと並ぶ花やハーブの苗鉢の前を素通りするのはなかなか難しく、ついつい今日はペチュニア、次はゼラニウムと持ち帰ることになります。
世の中にはグリーン・サム(Green Thumb=緑の親指)と呼ばれる園芸上手がいて、彼らの手にかかるとどんな植物も園芸雑誌の表紙のように立派に育つのですが、それに比べてこちらは何を植えてもフラストレーションばかりを育ててしまうブラウン・サム。でも、さすがこの一両日のように天候に恵まれると、家の花壇もそれなりに花の園らしい体裁をなしてきます。

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再び『茶の本』の言葉を引用するなら、

「花をちぎる事によって、新たな形を生み出して世人の考えを高尚にする事ができるならば、そうしてもよいではないか。われわれが花に求むるところはただ美に対する奉納を共にせん事にあるのみ。われわれは「純血」と「清楚」に身をささげる事によってその罪滅ぼしをしよう。こういうふうな論法で、茶人たちは生花の法を定めたのである。」

こんな言葉に促されて、前に小ブログ(2013.02.17)でご紹介した、越後・筒石の漁師小屋に放置されていた漁船の板で、庭の花を生ける花器をつくろうと思いたちました。
滅相もなく、秀吉の小田原攻めに従った千利休が、箱根の竹を伐って花器としたという有名な竹の花入れの話がちらっと頭をよぎったのは事実です。

e0153357_834548.jpgつくりはいたって簡単で、細かく切り分けた船板の小片にドリルで穴を穿ち台木とし、試験管を立てただけの花挿しです。しかし、ただ板を切るといっても船板はなかなかの曲者で、表面から見えないところに釘や鉄の鋲が入りこんでいたり、砂を噛んでいたりしていて、製材所に切断を頼んでも工具を傷めるというので断られます。今回もバンドソーで鉄の鋲を切断してしまったので刃が一発でダメになりました。
切り口には錆の色がにじんでいたり、理由の分からない変色の箇所があって、ホームセンターで買う木材とは味わいが大きく違います。この巧まず生まれた風情を活かしたいと思いついたのがこれらの一輪挿しですが、利休のワビに比べれば天と地の差があるのはよくよく承知しています。


船板の一輪挿し 1個 ¥2,000から
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by love-all-life | 2013-06-01 22:37 | 「モノ」がたり | Comments(0)