HAND & SOUL

2014年 10月 13日 ( 2 )

「イスラム国」

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幸福の定義に、「自分にないものを求めるのではなく、いま手にしているものを愛おしむことのできる人は幸せ」という言葉があります。
この言葉をアングルを変えて、「不幸な人はいま手にしていないもの求める」という言い方が成り立つかのような出来事が近ごろ物議をかもしています。平和の国日本の若者の「イスラム国」参加計画です。

何が「イスラム国」建設などという過激な動きを生んだのか、その背景は何か考えあぐねている大人たちをよそ目に、まるで台風接近の高波にサーフボードを抱えて浜辺に向かうかのような気軽さで、これといった大義もなしに、ただ人殺しの場に身を置いてみたいというような乱暴なというか、単純な動機で「戦地」へ出かけていく若者たちがいます。
彼らにとって「平和」や「安全」はあまりにも当たり前の日常なので、空気の存在を意識することがないように、平和であることを有り難く感じることも、改めて求めることもないのでしょう。
一方日本にいる限り「戦争」は彼らの手の届かないものであり、それ故に彼らの目に魅力と映るのでしょうか。

何人かの「戦士」が新聞などのインタビューに応じた言葉を拾ってみると、
「戦争に関心がある、気が済んだら帰国する」
「趣味を満足させるために戦闘に参加する。死ぬ気はない。気が済んだら帰る」
「就職活動がうまくいかなかった」
「生きるか死ぬかの勝負がしたかった」
「極限状態で戦いたい」
「思想や宗教的な理由はない。ただ強い相手に力試しをしたかっただけ」
「戦場にいるのは、敵でも味方でも、戦うことを選んだ人たち。それを殺すのがいいか悪いか、問うことに意味はない」

これらの言葉のなんと気軽で、身勝手で、無責任で、想像力や思考力の欠けてることか。「命をかけた自分」に酔いしれた狂気というほかありません。
「戦闘」に身を置いたことはないものの、空襲、焼け跡、近親者の戦死、空腹が人々をどれほど醜く卑劣にするかなど、戦争末期の悲惨を重苦しい時代の空気とともに吸い込んだ子ども時代の体験をもつわが身として感じるのはただ怒りとあきれのみです。

それにしても、なんでこんな若者たちを生んでしまったのだろうか。
70年ほども経って「戦争の実像や悲惨」にも老化現象ともいえる経年疲労およんでいるのではないかという疑念であり、平和を手にすることの困難さや有難味を知っている世代の努力不足という反省であり、それを伝えるアプローチの仕方にどこか欠如しているところがあるのではないかという思いです。
「不幸な人はいま手にできないもの求める」に戻るなら、いま彼らが手にしている「平和」を唱えているだけでは彼らには何のメッセージにもなりません。政治家には彼らの「不幸」が何に発するのかの究明とその解消に真剣に取り組ん欲しいし、大人たちは彼らが求める「魅力」の実態がどれほど醜く歪んでいるかを示す努力を惜しんではならないと思うのです。

写真: 朝日新聞








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by LOVE-ALL-LIFE | 2014-10-13 17:01 | 時事・社会 | Comments(0)

「イスラム国」

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幸福の定義に、「自分にないものを求めるのではなく、いま手にしているものを愛おしむことのできる人は幸せ。」という言葉があります。
この言葉をアングルを変えて、「不幸な人はいま手にしていないもの求める。」という言い方が成り立つかのような出来事が、近ごろ物議をかもしています。平和の国日本の若者の「イスラム国]参加計画です。

何が「イスラム国」建設などという過激な動きを生んだのか、その背景は何か考えあぐねている大人たちをよそ目に、まるで台風接近の高波にサーフボードをもって浜辺に向かうかのような気軽さで、これといった大義もなしに、ただ人殺しの場に身を置いてみたいというような乱暴なというか、単純な動機で「戦地」へ出かけていく若者たちがいます。
彼らにとって「平和」や「安全」はあまりにも当たり前の日常なので、空気の存在を意識することがないように、平和であることを有り難く感じることも、改めて求めることもないのでしょう。
一方彼らは日本にいる限り「戦争」は決して手にすることのできないものであり、それ故に彼らの目に魅力と映るのでしょうか。

何人かの「戦士」が新聞などのインタビューに応じた言葉を拾ってみると、
「戦争に関心がある、気が済んだら帰国する」
「趣味を満足させるために戦闘に参加する。死ぬ気はない。気が済んだら帰る」
「就職活動がうまくいかなかった」「生きるか死ぬかの勝負がしたかった」
「極限状態で戦いたい」
「思想や宗教的な理由はない。ただ強い相手に力試しをしたかっただけ」
「戦場にいるのは、敵でも味方でも、戦うことを選んだ人たち。それを殺すのがいいか悪いか、問うことに意味はない」

これらの言葉のなんと気軽で、身勝手で、無責任で、想像力や思考力の欠けてることか。「命をかけた自分」に酔いしれた狂気というほかありません。
「戦闘」に身を置いたことはないものの、空襲、焼け跡、近親者の戦死、空腹が人々をどれほど醜く卑劣にするかなど、戦争末期の悲惨を重苦しい時代の空気とともに吸い込んだ子ども時代の体験をもつ身としてはただ怒りとあきれしか感じることはできません。

それにしても、なんでこんな若者たちを生んでしまったのだろうか。
70年ほども経って「戦争の実像や悲惨」にも老化現象ともいえる経年疲労およんでいるのではないかという疑念であり、年長者の努力不足という反省であり、アプローチの仕方にどこか欠如しているところがあるのではないかという思いです。
「不幸な人はいま手にできないもの求める」に戻るなら、いま彼らが手にしている「平和」を唱えているだけでは彼らには何のメッセージにもなりません。政治家には彼らの「不幸」が何に発するのかの究明とその解消に真剣に取り組ん欲しいし、大人たちは彼らが求める「魅力」の実態がどれほど醜く歪んでいるかを示す努力を惜しんではならないと思うのです。


写真: 朝日新聞








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by LOVE-ALL-LIFE | 2014-10-13 17:01 | 時事・社会 | Comments(0)