HAND & SOUL

カテゴリ:時事・社会( 77 )

<老いがい>の時代


神奈川県大和市は「60歳代を高齢者と言わない都市」を宣言しました。広報や案内にも69歳までは高齢者と表記せず、他の文書などもそのつど検討していくという(天声人語20104.4.17)ことです。 
高まる一方の高齢者の比率を是正するこれといった手だてもない行政がひねり出した苦肉の策というのは少し意地悪い見方かもしれませんが、自身も65歳の市長は「豊かな知識と経験は市の宝。はつらつと活躍していただきたい」というのが表向きの説明です。
近頃は行政にもなかなかの策士がいるものです。


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先日、新聞で「<老いがい>の時代ー日本映画に読む」という書籍広告が目にとまりました。 
はて、<老いがい>とは? 早速書店で求めて読んでみました。 
著者の社会学者の天野正子さんは冒頭に、「老いはもはや『生』のゴールではない。可能性にみちたスタートではないか。『生きがい』より<老いがい>の方が、『生』のよりふさわしい表現ではないのか。」と述べます。 
たしかに人生85年になった今、65歳の定年から人生の終点の20年間あまりは、人が生まれた0歳から一人前になるまでの時間と等しいのです。このような長さを、老後として人生の「余ったの時間」としてしまったり、それまでに蓄えてきた体力や知力を次第に喪失していく、生の終点へのモラトリアム期間としてひっそり過ごすにはあまりにも長い時間ではないか。そこには老いてはじめて知りうる人生の見方や、向き合い方や、意味づけの仕方があり、それらは人生の奥行きをいっそう深める価値があり、老いてはじ めて接しうる人生、いわゆる<生きがい>のヴァージョンアップしたカタチである<老がい>があるはずだいうのです。 

天野さんは、戦後から現代までの65本の日本映画に登場する<老いのカタチ>をとりあげ、戦後、経済成長、バブル崩壊、失われた10年と経てきた日本社会のなかで、かって「お手本」とされた時代から「社会問題」へと転落した老人の存在を日本の映画人たちがどう描いてきたかを解説しながら、<老いがい>について「人の生と老い、そして死をつなぐものは、何をしたかという成果や業績ではなく、ただ、自分を生き切るという行為なのである。」と結論づけます。


 映画はハリウッド型エンターテイメントとして接するのみで、さしたる理由もなく日本映画というものをほとんど観たことがない当方としては、日本の映画人が社会や時代を描くことにこれほど熱心だったとは知らず、いささか恥ずかしい思いを持つ一方、77歳の「老い」とどう向き合うかいまだ模索中の我が身に心地よい刺激をくれた1冊でした。


写真:小津安二郎監督「東京物語」1953年













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by LOVE-ALL-LIFE | 2014-04-19 20:22 | 時事・社会 | Comments(0)

景気ばなし


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デフレ脱却・景気回復のかけ声で年が暮れ、年が明けました。ここ何年かの国政への期待調査で「景気回復」がずーっとトップだったのですから、安倍政権は国民の負託応えているといえるのでしょう。テレビの安倍さんの顔がだんだん自信が満ちてきたように感じるのは気のせいでしょうか。 
ここへきて経済界も企業トップが報酬アップや雇用拡大を唱え、アベノミックスに歩調を揃える姿勢を示し始めました。 

「景気」とは、「景」が「かげ」や「ものごとの様子」を表し、「気」は「こころの動きや気分」を表す字の組み合わせです。
とすると景気がよくなるといっても、必ずしもイコール実体経済がしっかりするということでもなくて、「世の中少し活気がでてきたみたい」という気分が、さらなるお金回りを促して、一部の贅沢品が売れたり、とんでもない金持ちが出現したりという現象になり、「ン?景気がよくなったのかな」と思う人が増えてくるといったようなことではないかと思うのです。
 所詮は気分のファクターが大きいと知っているからこそ、政治リーダーは「景気回復、デフレ脱却」を声だかに連呼し、そうなって欲しいと望む財界もそれに唱和するのでしょう。 株や相場の変動が、なにかしらの理由があるにしても、それを針小棒大に事あげしたり、抹殺するなどの心理操作で上がったり下がったりするといったことも含めて、お金に関することには「気分」が大きく物を言うことから「景気」という言葉が生まれたと勝手に解釈しています。 

お正月気分か、景気の回復感に勢いづいてか、銭洗弁天へ三々五々途切れない参拝の人の流れをHAND & SOULの窓から眺めて思うのは、戦後の無一文から復興、バブルと経てきて、物や富の豊かさが心の豊かさや幸福と直結するものではないことを思い知ったはずなのに、またきた道を繰り返すのかと感じるのは、このさき懐具合の好転をのぞむべくもない後期高齢者のひがみでしょうか。
 暮れに読んだ本で出会った「富は海水に似ている。飲めば飲むほど喉が渇く。」 というショーペンハウエルの言葉にいたく共感してしまいました。 
お正月早々景気の悪い話ですみません。 


 上の写真は、京都・龍安寺のつくばい。吾唯足知(われ ただ たるを しる)が刻まれています。これと表裏で、「貧乏とは、ものが足りないことではない。ものがあっても足りないと思うことだ。」というリトアニアの古い諺もあります。








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by LOVE-ALL-LIFE | 2014-01-11 21:40 | 時事・社会 | Comments(0)

積極的平和主義

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流行語大賞が発表され、今年の漢字が決まり、近頃は言葉で一年を総括するというのが年の瀬のならいとなった感が あります。 
さて、当方として、今年気になる言葉としてひとつ取り上げるならば、それは「輪」でもなく、「じぇじぇじぇ」でも 「お・も・て・な・し」でもなく、「積極的平和主義」です。 
「積極的平和主義」という言葉を気に入っているわけでも、嫌っているわけでもありません。ただ戦争体験のない安倍首相 の口からこの言葉が発せられると、「?」となってしまうのです。

 そもそも平和主義とはどういう意味でしょうか。手っ取り早いとこでWikipediaに尋ねると、「平和主義とは戦争や武力 行使や暴力に反対し、個人や組織や国家の紛争の解決を求める手段として、例外を認めない絶対的な非暴力・非軍事力に より、平和の追求や実現や維持を求める思想のことである。」と出ています。 う〜ん、安倍さんの言っている平和主義と大分ニュアンスが違うなという感じです。 
安倍さんは「積極的」平和主義と言っているのだから、じゃ、この「積極的」というところに彼の本当の思いがあるに 違いないと報道などで安倍さんの発言を聞いていると、彼の主張は「わが国が平和であるためには、他国の武力に対して いざというとき対抗しうる最低限の武力を持っておこう」という現憲法の理念は、台頭しつつある中国の覇権主義などに 対するには消極的すぎるのであって、相手が武力を使いそうだと分かったら事前にそれを叩き潰すくらいの準備をしておく ことこそが「積極的」な平和主義だということのようです。武力をもっと蓄えて、いちはやく使えるようにしておくことが 「平和主義」というのですからやはりなんだかヘンです。 

「積極的平和主義」とならんで、安倍さんが最近よく口にする言葉に「我が国と郷土を愛する心を養う」というのがあります。
 国のリーダーが国を愛することを唱えて何が悪いというむきもあるでしょう。しかし「国家」という言葉について再度Wikipedia を尋ねてみると、「国家は、国境線で区切られた領土に成立する政治組織で、地域に居住する人々に対して統治機構を備える。 領域と人民に対して排他的な統治権を有する政治団体もしくは政治的共同体である。 」とあります。 この定義からも、国家という概念そのものが「排他的」という紛争の種を宿しているのです。一国の平和を言い募ればつのる ほど世界の平和からは遠のいていくというのは悲しい皮肉です。安倍さんの「積極的平和主義」の分かりづらさも、この皮肉 に発しているのでしょう。 

「積極的平和主義」にしても「我が国と郷土を愛する心を養う」にしても、一国の首相が唱える言葉として一見強くきれいで カッコよく聞こえますが、国のリーダーが敵の姿を明確に示し、カッコよく威勢のいい言葉でナショナリズムをあおりだした ら「コワイ」というのが歴史の教えるところです。わが身がこの世の空気を吸ったこの77年の間でも、太平洋戦争のときが そうでした、9.11後のアメリカがそうでした。 
本当の平和主義者を「弱虫」「腰抜け」「非国民」と罵倒する愚を繰り返してはならないと思うのです。


 もし積極的平和主義という言葉が成り立つとすれば、こういう主張でしょう。 
「私には人に命を捧げる覚悟がある。しかし、人の命を奪う覚悟をさせる大義はどこにもない」。
                                           マハトマ・ガンジー








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by LOVE-ALL-LIFE | 2013-12-24 13:11 | 時事・社会 | Comments(0)

さよなら、天野祐吉さん。

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天野祐吉さんが亡くなりました。突然でした。前日朝日新聞の書評欄でお目にかかったばかりだったので、それはまさに天声人語が惜しむように「きのう会った人が亡くなったような喪失感」です。

朝日新聞に足掛け29年間にわたって連載された「CMウォッチング」「CM天気図」を毎週読むのを楽しみにしていました。
昔、広告制作を生業としていた身として、近頃の広告のつまらなさを悲憤慷慨するだけの当方とは違って、天野さんは最後まで広告が好きで、広告の魅力や力を信じ、凡百のCMのなかにわずかに輝く一粒に光をあて、ほめたり嬉しがったりする姿勢に、エライなと感心するとともにご苦労なことだとも感じてきました。
天野さんの言葉は、「むずかしいことを やさしく やさしいことを おもく 重いことを おもしろく」という井上ひさしの座右の銘を地でいっているようで、それはそのまますぐれた広告コピーのようでもありました。
しかし、広告は文化であり批判精神であるとの信念を実践するがごとき洒脱な文章の対象はいつも「世の中」でした。ですから彼の「CM天気図」は「世の中天気図」だったわけで、そしてそれはいつも曇りがちでした。

そんな天野さんを、去年11月28日付けの「CM天気図」の一文を掲げて偲びたいと思います。

「近頃何がぶったまげたって、自民党などいくつかの政党が、経済成長の達成を公約にかかげているのには驚いた。いくら景気が悪いからって、そんな点数かせぎはいいかげんにしてほしい。
いま20世紀の成長至上主義の弊害が世界のあちこちに現れ、21世紀型の『脱成長社会』への転換が大きなテーマになっている時である。多くの人が言っているように、いまの成長は『人間のための成長』ではなく、『成長のための成長』になり果ててしまっているのだ。 成長に欠かせないのは国民の消費支出だが、経済をもっと成長させようと思ったら、国民にもっともっと消費させることが必要になってくる。でも、福袋しか買うものがないようなこの時代に、これ以上何を買えっていうのかね。
『地球は人類の必要を満たすには十分だが、あくどい欲望を満たすには小さすぎる』とガンジーさんは言ったが、こんな成長路線を走り続けていたら地球がぶっこわれるのは目に見えているし、『日本再生』だって危ない。
そうでなくても、成長がそのまま景気回復につながるわけじゃない。そんなまやかしより、ぼくらが政治家に聞きたいのは、明日の日本像だ。文化人類学の渡辺靖さんの言葉を借りれば、あすのぼくらが住む国の『物語』である。たとえば経済学の浜矩子さんが言うような、多様性と包容性に富んだ『老楽(おいらく)国家』も、そういう物語の一つだと言っていいだろう。
成長にこだわるから大量生産・大量消費の歯車をまわすための原発も必要になる。国民をのせるための甘い言葉より、いまみんながほしがっているのは、明日のこの国の物語を語る政治家の誠実な言葉じゃないのかな。」

合掌
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by love-all-life | 2013-10-26 11:50 | 時事・社会 | Comments(0)

柔らかくて硬い、女性パワー


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安倍政権丸は、いずれ避けられない遠くの大波には知らぬ風を決めこんで、とりあえず上々の船出のように見えます。
誰に向ってか次々と矢を放っては「的中!」と威勢のよいことです。そんな矢のなかで比較的目標がはっきりしているのが「女性パワーの活用」でしょう。

国土は狭く天然資源に恵まれない日本が、厳しい国際競争を戦いぬいて行くためには「人材」こそ強力な武器であるとはくり返しいわれてきたことです。
受験競争を巧みに乗り切って、有名校(といっても国際ランクでは低い)を出た一握りの官僚や金融マン(それもほとんどは男性)に牛耳られるひ弱な日本社会からの脱皮が必要なのは誰の目にもはっきりしています。
知識・情報異存、専門性に偏った男性中心企業社会を変えて行かなければなりません。

昔、東京大学総長だった吉川弘之さんが講演で話したという忘れ難い言葉があります。
「東京大学には、鉄の専門家とか、油の専門家とか、卵の専門家とか、熱伝導の専門家、落下法則の専門家はいっぱいいるが、目玉焼きを焼くのは一般の主婦のほうがうまい。」
国運を左右する政治家や、兆円規模の予算をコントロールする経営者が、奥さんが病気になると自家の印鑑ひとつ探せなかったり、朝ご飯もろくに食べることができないといったことを笑って済ますことはできません。
身近な環境、日々の暮らし、生きがいや、明日の家族の姿を、情報や統計数字に頼らないでもちゃんと考えることができる人間が、世の中のあらゆる場で必要とされているのは明らかです。

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最近「身軽に暮らす」という本が出ました。
「もの・家・仕事・40代からの整理術」という副題がついていて、40代、50代、60代、70代の女性6人を、ライター・石川理恵さんが取材してまとめたものです。
登場する女性は、エッセイスト・吉本由美、服飾家・山中とみこ、アンチヘブリンガン店主・大久保紀一郎/大久保美津子、料理家・枝元なほみ、イラストレーター・内藤三重子、編集者・山崎陽子とそれぞれ肩書きがついていますが、みなさん一つの立場にとらわれないで、しなやかな冒険心と創造性と適応力をいかして、自分らしい人生の楽しみ方や暮らしの工夫について率直に語っています。
子育てが終わったら老後という時代ではなくなった現代、成熟した女性としての長い時間をいかに自分らしく創造していくかのヒントが、6人6様に語られていて好評らしく、すでに4版を重ねています。
お気づきのように、6人のなかにバアバこと内藤三重子が取材されていて、彼女の若かった頃のイラストレーターとしての仕事や、雑誌「私の部屋」での関わり、その後のモノづくり、HAND & SOULのこと、ヒナづくりへの変化が実は何の変化でもなく、料理する自分、洗濯する自分、旅行する自分が同じであるように、ひとりの人間の表し方に過ぎないことがわかります。本人は「丸裸にされたみたい」とテレていますが、自己一貫性と環境への柔軟性は他の女性たちにも共通しているように感じられます。

「柔らかくて硬い女性パワー」よ、日本を救って。
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by love-all-life | 2013-10-05 18:18 | 時事・社会 | Comments(0)

この世は生きるに値する

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宮崎 駿さんが長編アニメ制作から引退するというニュースが各メディアで大きく報じられました。
おそらく黒澤明や小津安二郎の引退もこれほど大きく扱われなかったと思いますし、まして歴代総理大臣の引退などはこれに比べれば誠に貧弱な扱いです。
このことは、彼の去就が社会的にそれほどの大きなインパクトをもっているということであり、3歳の幼児から100歳の老人までが「エッ、ほんとう?」と等しく反応できる稀な出来事だったからでしょう。

誰もが「残念だねえ」と言いながら、その引退を惜しむこころの片隅でどこか清々しさのようなものを感じている風です。
世の中、何事も効率化がすすむなか、膨大なセルを一枚一枚描き重ねる手描きアニメにこだわり続けるひたむきさ。アニメを子供騙しの対極にまで高めようとする執念。作品に込めた社会的メッセージを美しさと温かさとユーモアに包んで提示する手腕。つねに全力投球する誠実さ。そしてしばしば見せるイタズラっ子のような笑顔。これらが一緒になって、人々は彼にある種の爽やかさを感じとるのでしょう。

末の孫娘が3歳の頃から遊びにくる度にせがまれて「魔女の宅急便」を一緒に見ていました。ビデオさえかけてやれば付き合う義理はないのですが、ついつい最後まで一緒に観てしまいます。20回は下らないと思いますが、何度観ても見飽きることはありません。そのディテールへの追求の深さ、人間にたいする洞察や自然への愛おしみなしには生まれない表現の密度に感服してしまうのです。
3歳児をして、毎度初めて観るように惹き付けてしまう作品の力こそ、その表現の密度の成せる技に違いありません。子供は決して騙されないものだと痛感します。

さて、あと10年は仕事をしたいという宮崎さんの今後がつい気になってしまいますが、そんな時も時「五輪開催地決定!」のビッグニュースが飛び込んできました。
「宮崎 駿を、第二回東京オリンピックの総監督に!」。ちょっと短絡的のような気がしないでもありませんが、運命的なタイミングを感じざるを得ません。

「この世は生きるに値する」と信ずるクリエイターに、近未来の日本を託してみたいとは思いませんか。

写真:朝日新聞
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by love-all-life | 2013-09-09 08:20 | 時事・社会 | Comments(0)

鎖をきるのは、いつ、誰が?



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国際社会で活躍出来る人材の不足が嘆かれて久しいですが、かけ声や議論だけがだらだらと続いていて、海外への留学生数は他のアジア諸国に比べて相対的にどんどん低下する一方で、凋落日本の姿をそのまま現しているかのようです。
そんな現状に業を煮やしたのか、少子化で困った私立校や予備校の窮余の戦略なのか、予備校大手の河合塾が都内の私立高校と提携して、米ハーバードや英オックスフォードといった海外の名門大学進学を目指す中高一貫校を設立する計画が報じられました。一つの石が転がったの感はあります。

かって森首相の英語力を揶揄するジョークがマスコミで話題になったことがありました。
クリントン大統領との日米首脳会議に際し、首相の英語を心配した側近が、とにかく”How are you?”と“Me, too.”とだけ言うようにアドバイスをしたところ、いざ会うや”Who are you?と言ってしまい、大統領が苦笑しながら、ユーモアと思い”I’m Hillary’s husband.”と答えると、森首相はなんと” Me, too.”と応じた、というものです。
このジョークはねつ造だったことが明らかになっていますが、自らの英語力の劣等感を茶化すのに、自国の首相をバカにして溜飲を下げるとは、日本人の英語にたいする心理にはどこか屈折したものがあります。
尊王攘夷の江戸末期から引きずっている根強い劣等感と、欧米なにするものぞという空威張り的な優越感の間でゆれる気持です。

幕末から明治にかけて、英語を身につけるには今とは比べようもないほどの劣悪な学習環境のなかで、一部の開明的な若者たちの血のにじむような努力があって、日本は近代国家としてスタートを切ったのでした。
太平洋戦争の敗戦で、優越感のかけらも失い、劣等感を劣等感と意識することさえ忘れ、ひたすらフルブライトの奨学制度にしがみついて猛勉強した時代を経てやっと手に入れたのが高度経済成長でした。しかし世界第二の経済大国になるや、日本は原語で勉強しなくても日本語で書かれた書物で充分最高水準の勉強ができる幸せな国で、植民地にならなかった証拠だなんていう大口をたたくものさえ現れました。国内だけで仕事をしているうちはよかったが、グローバル化の大波が押し寄せてきて、コミュニケーションができないで立ち往生している間に後ろから来た国にどんどん追い抜かれているのを知っていながら国はいつまでたっても有効な手だてを打てないでいます。TPPにしても、外国人雇用にしても、そして英語教育にしても、いまだ鎖国時代の残滓を引きずっているようにさえ感じられます。

言わずと、英語ができれば即国際人になれるわけではありません。「日本語が下手な人も、外国語を身につけられるけれども、その日本語の下手さ加減よりもさらに下手にしか身につかない」という作家の故米原万里さんの言葉もあります。
新設計画中の私立高校が、高度な英語力を身につけるためのたんなる受験校なのか、自国と世界の歴史、文化、アートを論じられるグローバル人材の育成を目指すのか興味のあるところですが、ま、小さな石であれちょぴり動いたというところでしょう。さて、大きな岩を国はどう動かす?
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by love-all-life | 2013-07-15 12:01 | 時事・社会 | Comments(0)

数字を使うか、使われるか

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質問:
心筋梗塞になった人の93%が<それ>を食べています。
ガンになった人の95%が<それ>を食べています。
殺人などの凶悪犯の98%が<それ>を食べています。
さて、<それ>を食べることをどう思いますか?

先日のNHK「クローズアップ現代:数字のカラクリ・データの真実~統計学ブームのヒミツ~」の冒頭は、街頭の人々へのこのような質問から始まります。
答えを求められた人は、「そんなもの食べないほうがいい」「え!何それ?」「そういうものを売ってはいけないんじゃないですか」というようなものでした。
で、質問の答えですが、<それ>とは「ごはん」です。
これは、番組のメインテーマである統計データというもののカラクリを示す一例でした。

今、統計学がブームを巻き起こしているそうです。出版界では入門書が5か月で26万部の大ヒットで、公開講座にはビジネスマンを中心とした受講生が殺到。そして、統計学を使いこなす「データサイエンティスト」なる専門職は「最もセクシーな(魅力的な)職業」だとして、多くの企業から引っ張りだそうです。
玉石混合の山のようなデータのなかから確かな指針を探し出す力。データ分析から知られざる事実を解明し、未来を予測するには統計学のスキルが不可欠なのだというのです。
現代ではビジネスだけでなく、多くの人にとっても統計学的な考え方「統計リテラシー」が必要なようです。

そこでまたジイジの昔話になりますが、外資系の広告会社で広告制作に携わっていたときのことです。ある世界企業のクライエントは徹底して調査データを駆使したマーケティングを行う会社で、ひとつの広告をつくる過程に何回も消費者調査をして、満足な数字が得られなければ何度もやり直しをしなければなりませんでした。
そもそも消費者調査の結果というのは、その日の消費者の意見や好みを反映しているのであって、それは明日の消費者の姿とは限りません。
これから売り出す新製品は、いわば明日の消費者に向けての製品なのだから、昨日の消費者を知ることにどれほどの意味があるのか。明日の消費者を洞察しイメージすること、つまり想像性や創造性が最も必要なのではないかと疑問を抱いたものです。
ま、何十万の従業員とその家族を抱える巨大企業とすれば、いちクリエイターの夢のようなアイディアに会社の命運をかけるより、リスクを最小限にすることのほうがはるかに大切なのでしょう。

番組で取上げている現代の統計学なるものは、扱うデータの量もその分析技術もかってとは比べ物にならないくらい進化しているのでしょうが、ここ何十年もハッとするような広告表現にお目にかかれないところをみると、最先端のデータ分析スキルといえども、未だ創造性の域にまで及んでいない証拠のように思えます。

写真:NHK
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by love-all-life | 2013-07-05 14:30 | 時事・社会 | Comments(0)

卵の悲哀

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卵の値段は60年前より安いのだそうです。2、3日前の日本鶏卵生産者協会と日本養鶏協会が連名でだした新聞全ページの意見広告で知りました。
1ページ全面の新聞広告といえば、掲載料だけでも千万円の単位の費用がかかるのですから、鶏卵業界としてはよほど世間に言いたいことがあるに違いない、と思って広告で主張している意見なるものを読むと、生産コストの高騰や良質な衛生管理を維持しようとするために経営が立ち行かなくなって廃業に追い込まれる鶏卵生産者が続出している、なんとかこの窮状を理解して欲しいというもので、要は、卵の値段が上がっても勘弁してくださいね、と訴えるものでした。
近頃、何の断りもなく平気で値上げをする業界やサービスが多いなかで、何ともご丁寧なことです。

たしかに卵は安い。家人に聞くと1個10円ほどで、1ダース100円以下でスーパーの目玉商品の定番となっているとのことです。
60年前の大学出の初任給は1万円に充たなかったと思いますが、いまは20万円。多くの物価が60年間で10倍から20倍になっていることを考えると、たしかに卵の卸売り価格が60年前よりも安いというのはいささか異常です。
なぜこんな現象が起きるのかは経済に疎い当方としては分かりかねますが、想像するに、その昔農家の副業として放し飼いの鶏が生む卵を集めて卸すというやりかたから、工業製品みたいな徹底した管理体制での量産品に変ったからでしょう。といってももとはといえば生き物である鶏が相手ですから、コスト切り詰めにも自ずと限度があるということでしょう。

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卵といえば、かって(というのはジイジが子供の頃)は、とても高級な食品であると同時に滋養のある食べ物として貴重がられていました。
小学生時代の仲良しの家にいた女中さんは、生まれてからこのかた殆ど卵を食べたことがなかったので、卵を割るが怖くて上手く殻を割ることができないと、友だちが話していたことが思い出されます。
それほど、卵はそうそう日常庶民の口に入るものではありませんでしたし、体力回復のためにと病人に与えられるので、子供心に卵を食べる病人がうらやましく思えたものです。
もちろん昔が良かったとは決して思いません。生卵が安心して食べられ、オムレツやかに玉が一大決心しなくても食卓に上る今の方がいいに決まっています。

「私たちの仕事って時給10円にもならないわね」とバアバがよく言うのですが、モノづくりは自分自身の楽しみとはいいながら、こつこつと積み上げた手仕事の結果に「あら、高いわね」なんて言われると、機械ならぬ生身の人間の成果物も工業製品も一緒くただなと、ちょっと悲しくなるときがあります。今回の卵の意見広告を見て、鶏卵業者のみなさんがたいへんなのは分からなくもないが、鶏が可哀想だなと感じた次第です。
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by love-all-life | 2013-06-08 20:35 | 時事・社会 | Comments(0)

「苦」あれば、「楽しみ」あり。

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本を読んでいて「『楽する』ことと『楽しむ』ことは違う。」という言葉に出会いました。
う〜ん、なるほど。
親類のように感じていた「楽(らく)」と「楽しい」。改めて見つめ直してみるとずいぶん違いがあるのに気付きます。
比べてみると、「楽する」というのは、「なにも苦労せず、嫌な状況から解放されている」というような感じでしょうし、一方、「楽しむ」というのは、 一般的には「好きなことをして満足を感じる」ことでしょう。
片や「なにもしない」、もう一方は「なにかする」、片や「非生産的」、もう一方は「生産的」というように、言葉の意味することが真反対といえるほど隔たっいてるのは面白いことです。

原始時代の人間は、生きるに必要な衣食住を得るための苦役に明け暮れていました。そのうち苦役の一部を家畜に担わせ、さらに道具を進歩させるとこで苦役から大幅に解放され、次第に「楽」な暮らしができるようになり、現代では科学技術の発達のお陰で、庶民も昔の王侯貴族も及ばないような「楽」な暮らしをしています。
結構な話といえばたいへん結構なことではありますが、果たして結構ずくめな話かといえばいくつかの疑念が湧いてきます。
辛い苦役からの解放を求め来たり、すでにその大部分が成し遂げられているともいえる現代でも、「楽」は望ましいこととして、まるで正義であるかのように、一層の「楽」を追求するのは果たして好ましいことなのだろうかという疑念です。
また、辛いことやリスクはできるだけ避けて、「何もしない」ことが「楽」であり、より「便利」なことが「楽」であるとすれば、これは社会にとって、地球にとって大いに反省すべきことではないかという危惧です。

自分自身がリタイアして、まぁいわゆる「楽」な身分になって、「自由」になったという実感はありますが、「楽」=「楽しい」という感じを抱いたことはありません。
考えてみると、世の中の大抵の「楽しみ」は「苦しみ」があってのことではないでしょうか。趣味でも、スポーツでも、人生の大きな楽しみとなるようなことには、その前提として必ずといってもいいほど「苦しみ」がついてきます。
苦しい思いをしないで手に入れられる楽しみなんて知れたもので、苦しみが大きければ大きいほど、得られる楽しみも大きいということは誰でもが知っていることです。
「楽」が続くという一見好ましい状態も、それがいずれ「苦しみ」になっていくという感じをもつ高齢者は少なくないと思います。
それは獲得した「楽」ではなく、与えられた「楽」であるせいかもしれません。しかし、長年ストレスの多い勤め人がやっと苦役から解放されて得る「定年後」は、いわば獲得した「楽」でもあるはずですが、それでも早晩ぶらぶら暮らすことが「楽」ではなく「辛いこと」に変ってしまうのです。

自分が天から授かった己の身体的能力、精神力、知力を使わずに休ませておくというのは決して「楽」ではないのです。
身体能力、精神力、知力を成長させようとすれば、そこにはなにがしかの努力が必要ですし、努力にはそれなりの苦痛が伴うものです。しかし苦痛を克服して得られる成果には必ず「楽しみ」がついてくるのです。
こうした感じを老人の戯言としないで、若者に真剣に向かい合って欲しいと思います。
このような「楽しみ」こそが人生を豊かにしてくれる「生きがい」というものだと思うからです。

80才の三浦雄一郎さんの快挙は、「楽」を拒否することで手に入れたまさに究極の「楽しみ」でしょうね。


写真:ミウラ・ドルフィンズ
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by love-all-life | 2013-06-01 23:24 | 時事・社会 | Comments(1)