HAND & SOUL

カテゴリ:文芸・アート( 53 )

セレンディピティ

e0153357_21423714.jpg









「セレンディピティ」という言葉を「偶然につかんだ幸運」というような言葉として聞いたことがありましたが、改めて少し調べてみました。(といっても、ネットで関連記事を漁った程度ですが)
 原語はserendipityで、意味は「ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力、探しているわけではないもの、それもいいものを偶然に発見する能力」とされ、そういう能力を持つ人をserendipperと言います。

 セレンディピティの事例としては、古くはニュートンのリンゴから、ラジウムを発見したキューリー夫妻、ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルなどが知られています。最近の例では、板チョコのように刃を折れるようにすればいいとひらめいた「カッター」。超強力接着剤の開発の失敗作から一転、「楽譜から落ちるしおり」を見てひらめくいた「付箋」。第2次世界大戦中、アメリカ軍兵士の水虫を防止するためブーツに中敷きとして使 用され、戦争後使い道を失った防水シートが、ピクニックで奥さんがレタスを包んだ事からひらめいた「サランラップ」。軍事用レーダーの研究者が「レーダーの近くで働いていた人たちのポケットに入れてあったチョコレートが柔らかくなる」ことに気がついて発明された「電子レンジ」などがあり、いずれも「行き掛けの駄賃」的な経緯で生まれた幸運たちです。 

そもそも、この言葉の発端は【セレンディップの3人の王子たち】というペルシャの童話で、ペルシャを旅するスリランカの3人の王子たちが、偶然と持ち前の聡明さからいろいろな問題を見事に解決していくというお話です。セレンディップとはペルシャ語でセイロン(スリランカ)のことです。 
のちにイギリスの小説家となるホレス・ウォルポールが子供の頃に読んだこの話から「セレンディピティ」という言葉を生み出しました。 

当方がこの言葉に興味をもつのは、なにか創造的な成果を得るのに「偶然」がキイワードとなるという点です。 
一般的によく言われる「創造」の過程とは、まず日頃から周囲の事柄に興味や旺盛な好奇心があるという前提があって、そういう人が具体的な課題を与えられるとアイディアの発見にエネルギーを集中しますが、革新的なアイディアなんてそう簡単に出るものではありません。そういうとき一旦考えることから離れて、べつな事柄に時間を向けたりしてからまたもとの問題に戻ると「はッ」とひらめきに至るといわれます。
 なにか一生懸命にものごとを考えつめていると、思考の呪縛にとらわれてしまい、他の一切に目がいかなくなって袋小路に入り込んでしまいます。そういうとき、例えばトイレにいくとか、映画をみるとかすると突然アイデァイが思いつくなどと言われます。
このトイレや映画にあたる思考の呪縛から解放されるきっかけとなるものが、セレンディピティの場合は「偶然の失敗」なのでしょう。 

ただ一心不乱に考えているだけではダメといっても、決して「果報は寝て待て」というわけではなく、それなりの条件がつきます。豊富な経験値、些細なことから洞察する力、異質なものへの受容性といった資質でしょうか。
 科学者であれデザイナーであれ、場はトイレであれ研究室であれ、いずれにせよ「チャンスは準備された心に降り立つ」(パスツール)というのは真理のようです。








[PR]
by LOVE-ALL-LIFE | 2014-01-26 21:33 | 文芸・アート | Comments(1)

明治は遠く・・・


e0153357_1452569.jpg








「日本に貧乏人はいるが、貧困は存在しない。」


アメリカの動物学者で、大森貝塚を発見したエドワード・S・モースのことばです。
彼は明治初頭に東京大学の初代動物学教授として3回に渡って滞日する間、日本の簡素で清潔で活発な庶民の暮らしぶりや、使用する道具の美しさにすっかり惚れ込み、多彩な品々、陶器、写真などを持ち帰りました。
それらはアメリカのピーボディ・エセックス博物館やボストン美術館の日本コレクションの中核をなしていますが、いま江戸東京博物館でそれらのモース・コレクションのなかから、明治時代に庶民が使っていた日用品の展示を中心とした「明治のこころ」が開催されています。

e0153357_14531884.jpg














江戸末期から明治にかけて来日した欧米人の多くが日本の素晴らしさを語っています。そのなかには珍奇な異国情緒を珍しがるだけのものもありますが、多くは、日本が清潔で、自然は美しく、人々は礼儀正しく、活気があり、笑いを絶やず、幸せそうだと観察しました。
そして何よりも彼らが驚嘆したのは、衣・食・住、暮らしのすべてがまことに質素でありながら、日本人が日常使う道具類にどれも最高度の優雅さと繊細があるということでした。
その一例として、英国の旅行家で明治時代に東北から北海道、関西を旅行したイザベラ・バードのことばを引用すると、
「どの台所用具にもそれぞれの美しさと使いやすさがあり、人々はその清潔さと年季の入った古さの両方に誇りを抱いている。(中略)とりわけ鉄やブロンズでできた薬缶の年季の入った風格と職人仕事のみごとさは、デザインにおいて少なくとも奈良の国立収蔵庫のそれに匹敵するし、形の優美さと仕上げのデリケートさという点で、ナポリの博物館のポンペイ人の部屋にある料理道具を凌駕している」。彼女は京都を訪れて、みすぼらしい小店舗に並ぶ品物の美しさに驚嘆した。「形、色、さらに全体的な効果の点でほとんど欠点がないというのは、好事家が求める高価な品々に限ったことではなく、農家のために作られた家庭用品もまたそうであるのだ。・・・・・最高の美術品とお話しにならぬ安物とが手を携えている」。(「逝きし世の面影」渡辺京二著より)このような賛辞は枚挙にいとまがありません。

18世紀後半からの産業革命で長足の進歩を遂げた西洋社会において、人々は効率や便利さを手にする一方で多量に出回る粗悪な工業製品に、どこかおかしいと疑念や不安を感じ始めていたのでしょう。工業化される前に存在し、いつの間にか忘れ去られつつある、誠実なモノづくりや、それを愛おしんで使う喜びを、彼らは明治の日本人の暮らしに再発見したのでしょう。
e0153357_14541072.jpg

なんでこんな些細なものにこれほど手間をかけて美しさにこだわるのだろうか?と考えてみて、そのような疑問は利潤追求を第一とした産業化社会にどっぷり浸かったいびつな発想から生まれるのだと気付きます。一方でつくり手が技と精魂こめてモノをつくり、もう一方にそれを正当に評価し受け入れる使い手がいて成り立つ関係が130年前にはしっかり存在していたのです。
つくる側と使う側がともに美意識や価値観を共有する社会、これほど真っ当なことはないはずなのに、まるで理想郷のように感じられるとはどういうことか。
世界的にも歴史的にも比類をみない豊かさを実現しているのに、アベノミックス音頭とやらに踊らされてさらなる豊かさを求めて右往左往する日本から、明治はさらにさらに遠くなりにけりの感しきりでした。
[PR]
by love-all-life | 2013-09-23 14:54 | 文芸・アート | Comments(0)

磔刑のペットボトル



e0153357_1657873.jpg


「美とは存在しているものではなく、それを発見した人の心に生まれるものだ。」とはよく言われることです。
となると芸術家とは、自らのなかに潜む金脈を掘り当てようともがき続けるゴールドハンターであると言えるかもしれません。しかし彼が苦労して掘り出した金塊を、鑑賞者が「なんだ土塊だ」と感じても致し方ないことで、だからと、鑑賞者にとっての金塊にばかりこだわる作家は、もはや芸術家と呼べるかどうか・・・。

「美」が自然に心から生まれるものだとしたら、「美」に接するにはまずは自然体でいることでしょう。「これは有名画家の作品だ」とか「・・億円だから立派な芸術だ」という既製観念から解放されて、自分の気持に正直になることだ、と、自分に言い聞かせはするものの、このことって言うほど簡単なことではなく、禅のお坊さんが解脱するのに座禅を繰返すと同じように、それなりの心がけも必要だとも感じています。
ま、心がけと言っても、当方がすることといえば、庭の落ち葉に目を向けたり、海岸の波打ち際のゴミのなかに何か面白いものはないかと漁ってみたりという程度のことです。


そんな海岸のゴミ漁りで奇怪なモノを見つけました。ペットボトルがたき火の熱で部分的に溶けて、砂や小石と合体した不思議なオブジェと化したモノです。
捨てられたプラスチック類は腐って分解して自然に帰すことながく、いつまでも醜い姿をさらしているので、普段は敬遠しているのですが、これを拾って眺めてみると、悪事を為した者が地獄の業火に焼かれて身悶えする姿にも見えます。まるで無表情な合成樹脂が火に焼かれることで命を得たかのようです。単純に「面白い」と感じました。
額をつくって納めてみると、地球の資源を浪費しまくる人類の罪を肩代わりして磔刑にかけられるキリストのようにも見えてきます。

これをアートワークとするつもりはさらさらありません。「美」とみるか「醜」とみるかも、もちろん人によってまちまちでしょう。所詮は心の問題なのですから。
ただ海岸で「汚いペットボトル」で済ませてしまったとしたら、発見から、いろいろ想像を逞しくして、額に入れるまでに経過した時間に感じたある種の充実感、あえて言えば「幸せ」な感覚は味わえなかったことは確かです。
[PR]
by love-all-life | 2013-09-15 17:02 | 文芸・アート | Comments(0)

ストラディヴァリよりよい音を奏でる楽器

e0153357_172392.jpg











旧友のKさんから素敵なYouTubeサイトのプレゼントが届きました。

南米パラグアイのカテウラ地区というところの貧しい村で生まれた、リサイクル・オーケストラのドキュメントです。
この地域は治安が悪く、パラグアイで最も危険な地域とされていてるようなところで、したがって人々の暮らしも貧しく、集積場のゴミから集めたペットボトルやビンを売ったり、リサイクル品をつくって生計を建てています。
子供たちの置かれている環境も劣悪で、勉強したり遊ぶ場所にも事欠く状況ですから、ましてクラシック音楽を楽しんだり学ぶことなどとはまったく縁遠い世界でした。「ヴァイオリンは家を買う以上に高い買物」なのです。

そんな村で、子供たちのために大人たちが指導して廃棄物から楽器をつくる運動がはじまりました。石油缶、廃材など、ありとあらゆる廃棄物を材料として集め加工して、チェロ、ヴァイオリン、クラリネットなど、オーケストラに必要な楽器を作るのです。
それらはチェロらしき音、ヴァイオリンらしき音、クラリネットらしき音を出す楽器らしきものであり、もちろんプロの演奏家の音とは異なっていますが、造形物としてのその姿には惚れ込んでしまいました。それらは大好きなポップアートの大御所クレス・オルデンバーグのジャイアント・ソフト・ドラムセットに負けないすばらしいモダンアートにさえ見えます。

e0153357_1739616.jpg







指導者のもとに自作の楽器をもった子供たちが集まってオーケストラを結成し、バッハやモーツアルトの曲を奏でます。
彼らの奏でる音楽は、当然のことながらウィーン・フィルのモーツアルトのようにはいかないとしても、それに勝るとも劣らない感動があります。
その感動はどこからくるか・・・
彼らが目にする楽譜には、汚され痛めつけられた地球、虐げられた子供たちの未来への「救い」と「希望」という特別の音譜がついているからなのだと感じました。

この感動を皆さんとシェアしたいと思います。
短いバージョンと長いバージョンがあります。ではClickしてお楽しみください。

The Landfill Harmonic Orchestra(short)

Landfill Harmonic Orchestra(long)
[PR]
by love-all-life | 2013-09-01 17:41 | 文芸・アート | Comments(2)

「コーネルの箱」


e0153357_20363557.jpg








この欄で紹介したことがありますが、HAND & SOULの金曜日はHAND & SOUL+BOOKとなって、店内の棚に古本を並べます。
バアバの「内藤三重子さんのこと」の著者であるナーヤこと村椿菜文が本を選んで並べていましたが、娘の保育園の関係でしばらくお休みすることになり、代わってNさんとAさんに選んでいただいています。お二人はジイジ・バアバといろんなところで価値観を共有するので、二人が選んだ本の棚を見て、「え!、これ読んでない。」「面白そう!」といった感じで、棚の本をつまみ食いする楽しみが増えました。

e0153357_20401013.jpg










で、今週のつまみ食いは、チャールズ・シミック著「コーネルの箱」でした。
ジョセフ・コーネル (Joseph Cornell、1903年 – 1972年)は20世紀に活動したシュルレアリズムの芸術家のひとりで、アッサンブラージュという、木箱のなかに様々なオブジェを構成して独特な詩的な世界を創りだす手法で「箱の芸術家」として知られ、多くのファンがいます。
1967年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で初の大規模なコーネル回顧展が開催され、ジイジは幸運にもそれを見る機会を得て以来のファンなのです。

e0153357_20414559.jpg









彼は生涯のほとんどをニューヨークから出ることなく、20世紀を賑わした多くのシュルレアリストのように奇癖や派手な行動で話題を振りまくこともなく、ひたすらマンハッタンの古道具屋や古本屋を歩き回り、古い書物やポスター、ピンポン玉やガラス壜や人形や細々したジャンクを漁り、自宅の地下室のアトリエにこもって、それらを組み合わせて箱の中に納めて自らの心のなかのユートピアともいえる、詩的で緻密な美の小宇宙を創り続けました。
また、コーネルは古いフィルムのコレクターでもあり、ハリウッド映画のフィルムをバラバラに切り繋いで作品をつくったりもしました。上映される作品は観客の大半にはさっぱり訳のわからない代物でしたが、観客のひとりであったサルバドール・ダリが激怒し、コーネルにつかみかかり、「お前は俺の頭からアイディアを盗んだ!」とわめき散らした、といったエピソードが紹介されていて、彼がある面で20世紀のシュルレアリズムのスーパースターよりさらに先進的であったことを象徴的に物語っています。

e0153357_2043014.jpg










「もしあなたが映画を途中から見ることを愛するなら、コーネルこそうってつけの監督である。映画館に入って、すでにはじまっている知らない映画の場面が眼に飛込んでくる。映像も会話もまったく神秘的、設定もわからずストーリーもまだ全然見えない。そうした瞬間をコーネルは捉える。」という著者シミックの言葉(柴田元幸/訳)は、コーネルの作品と鑑賞者の関係をうまく言い得ています。
狂気、異様、不条理といったシュルレアリズム作品のもつ一般のイメージとは異なって、コーネルの世界はあくまでも静謐、澄み切って、心の奥にしみ込んで、人の感性に美しい音を響かせます。
[PR]
by love-all-life | 2013-08-11 20:44 | 文芸・アート | Comments(0)

色狩人

e0153357_14471583.jpg







孫娘が3才の頃だったでしょうか、家族で古い白黒写真を懐かしがって見ていたら、横から「この頃は世の中にまだ色がなかったの?」と質問したのに、一同一瞬あっけにとられ、のち大笑いといったことがありました。ジイジ・バアバが日頃、「昔は違った」「こんなじゃなかった」と言っているものですから、昔は色のない世の中だったのかと思ったようでした。その彼女もいまはもうそろそろ色気も出ようかという6年生です。

私たちは色の中に生まれ、色とともに暮らし、色が消えて死んでいきます。私たちは色なしで生きることはないのに、何か格別の理由がなければほんとんど空気や水のようにその存在すら意識することが稀です。
そんな「色」のひとつひとつにもっと真剣に向き合ってみようと、世界各地を回ってわれわれの環境に存在する無数の色から任意に選択した自然や都市のなかの色を、絵具でパレットの上に再現し、色のもつ意味や役割について改めて考え、さらに創造的な社会づくりのきっかけをつくろうという試みを続けているのがデザイナー・藤原 大*です。
彼はのこの独自デザイン手法を「カラーハンティング」と名付けました。
この6月21日から東京ミッドタウンの21−21デザインサイトで藤原 大のディレクションによる「色からはじめるデザイン『カラーハンティング展』が開催されます。

彼から今回のカラーハンティング展をディレクションをするに当たって、バアバに作家としての参加の依頼がきました。内容は、彼がハンティングしてきた八ヶ岳の自然の色10色をベースにしてお雛様をつくって欲しいというリクエストです。「何でこの時期にお雛様なの?」というバアバの質問に彼の答えは「ハンティングした日が3月3日だったから」でした。
藤原さんからの頼みでは断るわけにはいかないと、バアバはとても張り切って、異例のスピードで制作に励みました。会場がいつもお雛様を飾る場所に比べて各段に広いので、いつもの倍以上ある大きな作品ですが、一昨日、完成品を会場に展示に行ったら、なんと一番乗りでした。

e0153357_14474977.jpg















目下、初日を控えて会場設営で大わらわのはずですが、「カラーハンティング展」がどんな色の世界、どんな提案があるのか、とても楽しみです。


「カラーハンティング展」 www.2121designsight.jp

*藤原 大/1992年、中央美術学院山水画科(北京)留学。94年、多摩美術大学美術学部デザイン科卒業後、三宅デザイン事務所入社。98年三宅一生と共に「A-POC」プロジェクトをスタートさせる。「A-POC」にて2000年度グッドデザイン大賞、03年度毎日デザイン賞を受賞。06年、ISSEI MIYAKEクリエイティブディレクターに就任(〜11年)。08年、株式会社DAI FUJIWARA設立。国内外でクリエイション活動を活発に展開する。京都造形芸術大学、多摩美術大学客員教授。
[PR]
by love-all-life | 2013-06-14 14:56 | 文芸・アート | Comments(0)

最高の人生の見つけ方

e0153357_215723.jpg





周囲の丘の稜線がこ子猫の背中みたいにふんわりと柔らかくなり、木の芽、若葉、花の色がパステル画のように綾なす季節になるといつもある感慨をもちます。
「あ〜、あと何回この景色を見ることができるのだろうか・・・」

自分の生涯時間というものを意識したのは、多分30代後半のことだったと思います。「オレのこれからの人生の長さは、すでに経験した時間の長さなのだ。」とフと思ったのが最初だったような気がします。
以来、既知の時間と未知の時間の長さの反比例は容赦なく着実に進行しており、昨年他界した音楽評論家・吉田秀和さんの言葉を借りれば、「若い時の一日の終わりは、それだけ自分が生命の出発点から遠くまで歩いてきたかを意味していた。しかし、今は同じことが終点への接近を意味する」という意識が年を追うごとにリアリティを増してくるのはいたしかたありません。


こんなシンキ臭い話をし始めてしまったのも、先日の夜観たTV映画『最高の人生の見つけ方』のせいかもしれません。

e0153357_2163332.jpg






当方は、ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマン主演という、芸達者なアカデミー賞コンビのキャスティングに惹かれて観たのですが、アメリカでも日本でも封切り当初大変な興行成績をあげた評判の映画だったようです。
ストーリーは、偶然に同じ病院でベッドを隣り合わせた、しかも偶然にも同じ余命6ヶ月を宣告された2人の末期癌患者。一人は大富豪のエドワード、もう一人は謹厳実直な自動車整備工カーターが、それぞれの「死ぬまでにやっておきたいこと」をリストにして、病院を脱出し、リストの項目をひとつひとつ実現して行くというお話です。
「棺おけリスト(Bucket List)」なる項目には、カーターは「荘厳な景色を見る」、「赤の他人に親切にする」、「涙が出るほど笑う」と記し、エドワードは「スカイダイビングをする」、「マスタングを乗り回す」、「ライオン狩りをする」、「世界一の美女にキスをする」などをつけ加えます。
病院を飛び出した二人の生涯最後の冒険旅行は、タージマハルから野生の楽園セレンゲティ、最高級のレストランからいかがわしいタトゥーショップ、レースカーのコックピットからスカイダイビング用の小型機まで。
二人は生きる上で直面する様々な疑問に取り組みながら、ひとつづつリストを埋めていく中で生涯の友を得て、死の時を迎えます。

死をテーマにしながらこれほどカラッと笑えて、奇想天外な状況設定もアホらしく感じられないのは、監督のロブ・ライナーの力量であるにしても、主人公の二人が芸を乗り越えて実在人物のように感じられるほど感情移入をしてしまったのは、こちらが同世代だからでしょう。
いつかこちらも「棺おけリスト」をつくる日がくるとして、「エドワードのような相棒に出会う」を項目に加えようかしらん。
[PR]
by love-all-life | 2013-04-10 21:08 | 文芸・アート | Comments(0)

さくら雑感

e0153357_2242336.jpg







待ちに待ったあげくに、足早に去っていくのが桜です。

先日、盆栽で桜の開花を楽しむ男性がテレビのニュースで紹介されていました。幼い赤ちゃん連れでの外出もままならず、アパートの部屋で桜の盆栽を育て楽しむことにしたのです。ほんの丈10センチほどの桜に2、30ほどの花が見事に満開で、ご主人のよほどの甲斐甲斐しさが伺えます。ひらひらと散る花びらをオチョコで受けて飲む晩酌が至福のトキだそうです。ん〜、そうだろうなぁ。幸せを生み出す名人というほかありません。


われわれは桜となるとなぜかこころ穏やかでいられません。日本人だからと言ってしまえばそれまでなのですが、じゃ、なぜ日本人なのかとなると、コトはそう単純ではないように思えます。
爛漫の桜は一方で、寒く暗い冬からの決別宣言であり、すべての命の再生の象徴であるとする、こころ華やぐポジティブなイメージの反面、ジイジの歳となるとどうしても武士道や旧日本陸軍のイメージと無縁でいるわけにはいきません。パッと咲いて、「潔く散る」桜の姿こそ武士のこころであり、日本軍人の鑑であるとして、若者の命を死へ追い立てる戦争末期の特攻隊に繋がる「桜」のイメージが、モノゴココロがつくかつかいなかの年齢の子供だったジイジのココロにしっかりと刷り込まれてしまっていて、軍服の七つの金ボタンに刻まれた桜を頭の中から拭い去ることは多分一生ないでしょう。

e0153357_22434842.jpg




今日は日曜日、HAND & SOULの小屋の 窓から三々五々と源氏山へ桜を求めて登って行く人々の流れを見ていると、桜の開花が、単に春の訪れを告げたり、戦争への連想を超えるもっと普遍的な何かがあるように思えます。
毎年同じ時期に、同じ樹に開花するとわかっていても、そのときななると思わずハッとしてしまう事件性みたいな趣は他の花にはみられないものです。
長い時の流れの中で詩に唱われ、描かれ、演じられ、意匠に使われ、知らず知らずのうちにわれわれの感性を育む栄養剤として働いているのかも知れません。花がない時期にもわれわれは潜在的に桜と付き合い、ともに暮らしているのでしょう。だから桜の開花についドキッとしてしまうのではないでしょうか。

テレビで盆栽の男性を観たとき、彼がまるでペットを見るような表情で桜花を見ていたのが印象的でした。ひょっとすると桜は、愛犬のように人を幸福にする不思議な力を秘めているのかも知れませんね。

写真:大正〜昭和初期の鎌倉の絵葉書より
[PR]
by love-all-life | 2013-03-31 22:51 | 文芸・アート | Comments(0)

記憶のキルト

e0153357_18464585.jpg






西高東低の典型的な冬型気圧配置で寒い晴天がつづく日、バアバと新年の散歩をしました
HAND & SOULから銭洗弁天への初詣の人並みを吸い込むトンネルがある坂道をさらに登り、葛原が岡神社からそれほど長くないハイキングコースを抜けて行くと20分ほどで北鎌倉に出ます。
JR北鎌倉駅に隣接する円覚寺境内にある踏切を渡って20メートルほどの線路沿に大きな古民家を移築した北鎌倉古民家ミュージアムがあります。開催中の前田順子・和のキルト展「紅絹でつないだ記憶」を、何の予備知識もないままふらりと入ってみました。http://kominka-museum.com/kikaku/20014.html

e0153357_18474613.jpg










昭和12年生まれの前田さんの祖父母、両親や姉妹が子供の頃から着ていた着物や、戦後の暮らしの大転換のなかで放出された和の布を丹念に集め、それらをキルトに綴った作品が、これも同じようにどこからか放出され再利用された古民家の空間のなかに具合良く調和をもって展示されています。様々な布片と手技が生み出す美の響宴に、思いがけないご馳走をいただいたような良い気分になって、足も軽く八幡様から鎌倉駅を回って一万歩ほどのウォーキングとなりました。


e0153357_18493539.jpg



その夜、かって会社勤めをしていた頃にチームを組んで毎週のように大阪のクライエント通いをしていた古い付き合いの仕事仲間から久しぶりに新年の挨拶めいたの電話がありました。
必然的に、彼は元気か?誰はどうしている?といった話しなりますが、この歳になるとそのなかに少なくない物故した面々も含まれるのはいたしかたありません。
そうした故人の思い出は、付き合いのあった人々の頭の中にちぎれちぎれの記憶として残っているだけで、それらの記憶の小片はお互いに繋がる部分もあるし、繋がらないところも少なくありません。やっぱりたまにはそんな記憶のかけらをみなで持ちよって故人を偲ぼうではないかという話になりました。

e0153357_1850689.jpg













そんな話しをしていて頭をよぎったのが「紅絹でつないだ記憶」で見たキルトのことでした。様々な暮らしの破片ともいえる古布を集めて繋ぎ合わされることで新たな命が現れる・・・かって親しかった故人を偲ぶのという行為も、まさにみなで記憶の小片を繋ぎ合わせるキルトづくりと似ているのではないか。そこに出現する記憶の集合体はもちろん生前の故人そのものの姿ではありませんが、故人の存在なしでは決して存在し得ない固有の絵柄に違いありません。

人が生前の造形活動によって残した作品はもちろんその人の生存の証しではありますが、それは作者の一方的なメーッセージに終始するのに比して、人の記憶のフィルターを通して現れ出るイメージは、彼または彼女の社会人としての質の高さまたは低さを映し出す鏡でもあるといえるのではないでしょうか。
そう考えてみると、自分がどのような記憶のキルトとして残されるのだろうか・・・すごく気になることです。

キルト作品 : 前田順子 作
[PR]
by love-all-life | 2013-01-12 18:53 | 文芸・アート | Comments(0)

生の短さについて

e0153357_12313339.jpg







ぶらりと入った本屋で「生の短さについて」というタイトルが目に飛び込んできました。
近頃なにかとこの手の表題が目につくのは、時間を持て余した高齢者が本屋の棚のまえでうろうろしているのを出版業界が見逃さず「老後の生き方」や「終末の迎え方」といった類いの本を並べるからでしょうし、それ以上に当方がそのマーケットのど真ん中という年齢だからでしょう。

著者は、あのローマの哲学者・政治家・詩人のセネカ! う〜ん,セネカか。その昔、美術大学の受験時代に石膏デッサンで胸像を描いた記憶がありますが、この名前にお目にかかるのはほとんどそれ以来です。
陰謀や裏切りや復讐、血や殺人など、権謀術数が渦巻く古代ローマの権力の頂点に常に寄り添いながら、毀誉褒貶の荒波に70年近くも漂いつづけた思想の巨人が得た人生訓が、この平和ボケした日本(とも言えない昨今ですが)で、年金の額を気にしながら細々と生きるわが身の参考になるとも思えませんが、やはり「生の短さについて」というタイトルと、たとえ難しくてもこれくらいならなんとか読めるだろうと思える文の短さに惹かれて買ってしまいました。

セネカが言っていることは、人は「人生は短い」と嘆くが、われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。もし人生の「時間」が有効に使われるならば、偉大なことをも完成できるほど豊かな時間が与えられている。しかし放蕩や怠惰で日々を送り、どんな善行にも使われないならば、結局最後になって、人生が最早すでに過ぎ去っていることに気付くことになる。われわれは短い生を受けているのではなく、われわれ自身がそれを短くしているのである。たとえば、莫大な王家の財といえども、悪しき主人の手に渡れば、たちまち雲散してしまうが、たとえつつましい財産でも善い管理者に委ねられれば、使い方によって増加する。それと同じように、われわれの一生も上手に按配する者には、大きく広がるものである。 と、まぁざっとこんなことです。

人生を長くするのも短くするのも、つまるところは「あなた次第」という訳です。さて、自分は人生の時間を長く使ってきただろうかと自問してみると、この歳まで大過なく生きて来たという意味では「長かった」と言えるし、ではどんな善行を為したのかと問われれば、「短かった」と言わざるを得ない心境です。
2012年という過去と、2013年という未来の狭間にたって、現在という「今」を意識し、無為に過ごさないように努めなければと思います。

最後にセネカのもう一つの言葉を、
「人生は物語のようなものだ。
重要なのはどんなに長いかということではなく、
どんなに良いかということだ」

では、皆さんよいお年を、そしてよい物語りを。
[PR]
by love-all-life | 2012-12-31 12:44 | 文芸・アート | Comments(0)