HAND & SOUL

カテゴリ:文芸・アート( 53 )

ゲンジボタル

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佐助稲荷の近くに住むTMさんから「蛍が出たよ」と電話がありました。もうそろそろだと思って、出たら知らせて欲しいと頼んでいたのです。早速孫たちを連れて出掛けました。
ここ佐助稲荷は、源頼朝が不遇の身で病についていたとき、夢に現れた、かくれ里に住む仙人のお告げに従って病を癒し、鎌倉幕府を開くことができたという故事があり、頼朝が幼少のころ「佐(すけ)殿」と呼ばれていたことから、佐助稲荷となったのが来歴です。
ということで、ここに出る蛍は源氏の正統の流れを継ぐ、言わばサラブレッドのゲンジボタルなのです。

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今年は気温が低いせいか、まだ4、5匹ですが、かくれ里の山懐の暗く沈んだ窪みにゆらゆらと小さな光が漂っています。道々賑やかにはしゃぎながらやって来た孫たちもシーンと息をつめて目を凝らします。
ゲンジボタルは、平家に敗れた清和源氏の頼政の哀れな運命を偲んで、夏の夜に漂うはかなげな光と命を、平安時代に生まれた「もののあわれ」という日本固有の美意識に重ねた命名とされています。
小学生の子供たちにとっては「もののあわれ」を理解すべくもありませんが、ふだんテレビ画面から発せられる激しい閃光とノイズを浴びることに馴れっこの彼らにとっても、虫の声さえしない静寂、かすかな草の匂いとほのかに点滅しながら浮遊する光の舞は、すべての刺激がわずかであるのでかえって内なる感覚が覚醒され、あえて言えば、日本人としてのDNAが呼び覚まされていくようです。彼らの沈黙がそのことを物語っています。


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アイルランドに生まれ、日本を愛し、明治37年に日本人として没した、かの小泉八雲に「虫の演奏家」という、秋の虫を愛でる日本の文化について書いた随筆があります。季節は異なりますが、結びの文章をこの時期にご紹介するのは意味あることと思います。

「虫の声一つあれば優美で繊細な空想を次々に呼び起こすことができる国民から、たしかに私たち西洋人は学ぶべきものがある。機械の分野ではそういった国民の師であることを、全て人工的に醜く変えてしまうことでは教師であることを、私たちは誇ってもよいであろう。だが、自然を知るということにかけては、大地のよろこびと美とを感じるということにかけては、いにしえのギリシャ人のごとく、日本人は私たちをはるかにしのいでいる。しかし、西洋人が驚いて後悔しながら自分たちが破壊したものの魅力をわかり始めるのは、今日明日のことではなく、先の見えない猪突猛進的な産業化が日本の人々の楽園を駄目にしてしまったとき、つまり美のかわりに実用的なもの、月並みなもの、品のないもの,全く醜悪なもの、こういったものをいたるところで用いたときのことになるであろう。」(「日本の心」平川祐弘編・講談社学術文庫)

日本人としてやや恥かしい思いを禁じえませんが、何という先見、何という正確な予言でしょう。
フクシマが起こってしまった今、次の予言を異国の誰かにされる前に、われわれ自身が先見性を示すときではないでしょうか。
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by love-all-life | 2011-06-20 15:41 | 文芸・アート | Comments(0)

春はすぐそこ

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辻々の梅の花が日に日に数を増して、新たな命のドラマの幕開けのチャイムの役割を演じています。


植物好きの孫娘が「これとって来た」と手のひらを開くと小さなフキノトウが二つ入っていました。
隣地の空き地で摘んできたというのです。新潟にいた頃に山古志あたりの里山でとったピンポン球ほどもあるふっくらとしたフキノトウとは比べ物にならないくらい小ぶりの貧弱なものですが、それでも「へー、やっぱり春だね」とからだの中の冷気をフッと吹き消してくれる効果はありました。

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定期昇給や移動といった業務日程や、卒業式や入学式などのカレンダー上の学事とも縁がなくなった分、花や虫などの営みが身近に感じられるようになって3年が経ちます。以来この時期になると、毎年今年こそはと一瞬力んでみるのが庭づくりです。

ところがいざ行動を起こすと、猫の額ほどの土を耕すにも一汗ではすまないほどの汗をかき、植えた草花の生長のもどかしさにいらいらし、開花の時期になっても一向に当初イメージしたような景色にはならず、よその花壇を恨めしく眺め、秋には落胆と反省の日々です。
体力の問題は別にするとしても、土づくりに失敗したのか、肥料が足りなかったのか、種類を誤ったか、いやむしろやり過ぎではなかったか、考えてみれば剪定ということを殆どしていなかったな、労力を惜しむくせに殺虫剤を使わず有機栽培をなどと目論んでみたが、いっそのことじゃんじゃん使ったほうがよかったのではないか・・・などわからないことだらけです。要はちゃんとした知識もなしに、労力を惜しみ、結果のイメージだけを限りなく膨らませていたのだというのが結論で、これも毎年同じです。
とは言いながら、いま手にしているありあまる時間と僅かな庭の地面から得られる贅沢といえば園芸にまさるものはないと思い返して、今年もカレル・チャペックの「園芸家12ヶ月」を書棚から引き出します。

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そもそも、「園芸家12ヶ月」を園芸のガイドブックにすること自体に問題があるかもしれません。というのも、以前小ブログで紹介したことがありますが、チェコの国民的作家であるカレル・チャペックが、自宅の裏庭での体験から、園芸家というものがいかに自分勝手で、自虐的で、けなげで変な人種かを皮肉たっぷりのユーモアに満ちた文章で綴ったそれはそれは面白い本です。あまり面白過ぎて園芸をすることを忘れてしまうほどです。
1月から12月まで、園芸家が何をするかが書いてありますが、2月のところを開くと、
「園芸家にとって、二月は一月の作業のひきつづきだ。・・・」とあって、2月になって「そろそろ園芸でも」という発想そのものがすでに手遅れであることを思い知らされます。

もう少し抜粋すると、
「できあがった庭を、はたからぼんやりながめていたあいだは、園芸家というものは、花の香に酔い、鳥の啼きごえに耳をかたむける、とても詩的な、心のやさしい人間だと思っていた。ところが、すこし接近して見ると、ほんとうの園芸家は花をつくるのではなくって、土をつくっているのだということを発見した。」
「園芸家というものが、天地創造の始めから、もし自然淘汰によって発達したとしたら、無脊椎動物に進化していたにちがいない。何のために園芸家は背なかをもっているのか?ときどきからだを起こして、『背なかが痛い!』と、ためいきをつくためとしか思われない。」
「せめて、もう一寸でいいから背が高くなりたいと思っているひとがいるが、園芸家はそういう人種ではない。それどころか、彼は、からだを半分に折ってしゃがみ、あらゆる手段を講じて背を低くしようとする。だから、ごらんのとおり、身長1メートル以上の園芸家は、めったに見かけない。」

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ね、こういう警句を読んでいると、園芸家でいるより読書家でいたほうが得策に思えるでしょ?
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by love-all-life | 2011-02-09 14:44 | 文芸・アート | Comments(0)

洟をたらした神

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このところHAND & SOULは周期的に店の半分くらいが本屋さんとなります。
そのとき店を仕切るのは次男の嫁さんのN。自分たちでつくった本や、ぜひ人に読んで欲しい本などを展示・販売するのです。
前回のときに棚に並んだ中から「これ買おうかな」って代金の100円を払おうとしたら、「ヤーダ、これジイジからもらった本よ」と言うではありませんか。「どうりで妙に惹かれると思った」と茶化してみたものの、いよいよ来るべきものが来たかと内心穏やかではありませんでした。

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再び買った自分の本とは『洟をたらした神ー吉野せい作品集』です。
前にいつどういう動機で買い求めたか、どんな内容だったか、吉野せいが誰かなど記憶がまるでないのです。
本を開くと、串田孫一が絶賛の序文を書いていて、頭の隅にこびりついていた微かな記憶にパルスが僅かに届いたような感覚を覚えます。

本書の紹介は作者の「あとがき」の抜粋が最適でしょう。
「1921年(大正10年)菊竹山腹の小作開拓農民三野混沌(吉野義也)と結婚。以後1町6反歩を開墾。1町歩の梨畑と自給を目標の穀物作りに渾身の血汗を絞りました。けれど無資本の悲しさと、農業不況大暴れ時代の波にずぶ濡れて、生命をつないだのが不思議のように思い返されます。
1945年、敗戦による農地解放の機運が擡頭しその渦に混沌は飛び込み、家業を振り返らぬこと数年。生活の重荷、労働の過重、6人の子女の養育に、満身風雪をもろに浴びました。
ここに収めた16篇のものは、その時々の自分ら及び近隣の思い出せる貧乏百姓たちの生活の真実のみです。口中に渋い後味だけしか残らないような硬い木の実そっくりの魅力のないものでも、底辺に生き抜いた人間のシンジツの味、にじみ出ようとしているその微かな酸味の香りが仄かでいい、漂うていてくれたらと思います。」

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苛酷な労働、社会改革運動に身を投じる夫、貧困の中での6人の子供の養育・・・、一方で四季の自然と幼い子供が見せる才能の輝きに生きる希望を繋ぐような暮らしを、農夫の訥弁と知性が絡み合ったような魅力あふれる文章で綴っています。まるで現代生活の裏返しのような暮らしの記録です。
吉野せいはわれわれの親と同じジェネレーションではありますが、語られている時代の多くを共有するジイジとしては、前に読んだかどうかといった脳細胞的記憶をはるかに越えて、心の奥の一番深い部分に潜む魂の記憶といでもいうようなものに直に触れてきて心動かされます。

二度目に読んでも初めて読んだようなフレッシュな感動があるというのは、喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか・・・。
「最近のことはすぐ忘れるけど、昔のことは忘れないよね」、それでいいんじゃないという心境です。

●第3回目のMARGUERITE BOOKS in HAND & SOULは2月18日(金)、19日(土)、20日(日)に開催します。
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by love-all-life | 2011-01-30 18:42 | 文芸・アート | Comments(0)

Merry Christmas !

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クリスマスが近づくこの時期になると思い出す一枚の絵があります。アメリカ人が最も誇りとするイラストレーターのノーマン・ロックウェルが描いたもので、今はなき大衆誌サタデー・イブニング・ポスト1956年12月29日号の表紙を飾った作品です。
子供にとってクリスマスの楽しさの主人公であるサンタクロースの存在が幻想であったことを悟った瞬間、全ての子供が通過しなければならない大人への通過点を見事に描いた微笑ましくもせつない傑作です。



e0153357_200312.jpg日本ではサンタクロースというと白の縁取りの深紅の衣裳に黒長靴、メタボな出っ腹に立派な白ひげをたくわえてお人好しの笑顔を振りまくイメージですが、あれはコカコーラが自社のコーポレートカラーに合わせて宣伝のためにつくり出したアメリカ産のイメージと知っていても、それ以外のサンタをイメージすることはなかな困難です。



e0153357_2043913.jpg20数年も前でしょうか、トルコを旅したとき地中海に面したミラというところでサンタクロースの教会というところに案内されたことがあります。正しくは聖ニコラスの教会といい、前庭に厳粛な姿で立っている聖ニコラスの銅像は、あの磊落なサンタのイメージとは大分かけ離れたものでした。
ミラの司教をしていた聖ニコラスは町の人に愛され、とくに子供たちから慕われました。昔この地方では持参金がないと娘は結婚できませんでした。ある没落した貴族の三人の娘の長女が適齢期になったとき、聖ニコラスは娘の家の窓からそっと金貨を投げ入れておきました。金貨は煙突のそばに干してあった靴下のなかに落ちました。二番目の娘が適齢期になったときも金貨が投げ込まれていました。三番目の娘のとき、父親は見張っていて、金貨を投げ入れるのが聖ニコラスであることを知りました。この聖ニコラスの善行の話が広まり、クリスマスの前夜子供たちが靴下を吊って聖ニコラスのプレゼントを待つという習慣が始まったとされています。

近年はサンタはフィンランドに住んでいて、子供たちがプレゼントのお願いの手紙を出すと叶えてくれるとか、グリーンランドでは公認のサンタクロースを指名しているとか、子供の夢を壊さないようにとの努力が世界的になされているようです。でも先に紹介したロックウェルの絵のような洗礼を一度でも受けてしまった子供たちは、パパにそっくりのサンタであろうが、パチンコ屋の門口のサンタであろうが、プレゼントをくれるサンタが本物と信じた振りをするしたたかさを身に付けているようです。

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それも承知の上で、いまHAND & SOULでは店先にバアバの手づくりのサンタをおいて、近所の子供たちの反応を伺うという子供じみた遊びを楽しんでいます。

そしてお知らせです。
12月17日(金)/18日(土)/19日(日)は HAND & SOULで2回目の「マーガレットプレス」のBOOK STOREです。
http://marguerite-press.net/naya_diary/の2月13日便をご覧ください。

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by love-all-life | 2010-12-15 18:51 | 文芸・アート | Comments(0)

夏休みのお勉強

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小学校3年の孫娘のE子の1学期の通信簿を見て家族一同「うーん」と唸ってしまいました。3段階評価の一番下の『もう少し努力しましょう』の覧に○がずらーっと並んでいたのです。
学校から帰るとカバンを玄関に置くや塾に行かない近所の子供を探しては夕方まで遊んでいるのですから当然の結果とはいえ、これじゃ学校に行っても面白くないだろうし・・・、現に学校から「E 子ちゃんがお腹が痛いといって保健室で休んでいるので迎えにきてください」と担任の先生からの呼び出しがかかったことも一再に止まりません。

「花や蝶を見て遊ぶのもいいが、学校嫌い勉強きらいになっちゃ困るね」ということになり、「よしッ、この夏休みはジイジがE子の勉強を見よう!」と宣言し、1日朝1時間半、元大学教授の個人家庭教師というちょっと贅沢な布陣を敷きました。(E子は少しもそう思っていないようですが。)
ということで迷惑顔をしているE子をいかにのせるかジイジにとってタフなチャレンジが続いていますが、それだけではなくこの時間ジイジにとっても結構なお勉強になるんです。


その1
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「じゃ次は『板』という字を書いてごらん」
「?」
「わかんない?板って何でできてる?」
「・・・木」
「そう!だったら左側は何扁?」
「キヘン?」
「そう。右側は?」
「?」
「わからないかな、反対のハンって言う字だよ。ソルとも読むんだよ」
と言ってハッと気づきました。そうか!木が反るから板なんだ。


その2
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読む力を身につけるための例文に『めだか(杉浦 宏)』という文章があります。めだかのような小さく弱い魚がどのように身を守る特殊な能力をもっているかを記した文です。
めだかが水面近くを泳ぐのは敵が少ないからであること、すばやく泳げること、底にもぐって水を濁らせて身を隠すこと、強い繁殖力で群れをなして敵の襲撃をかわすこと。まためだかは身体が小さいので何日も雨が降らなくても小さな水たまりでも、温度が40度くらいでも生き延びることができるし、大雨になって川から海まで押し流されても塩水にも耐えられやがて川へもどることができるというような内容です。
どうです、これだけでもちょっと博識になりますね。
生きるに厳しい環境にいる生物は繁殖力が強いし、生きるための知恵をいろいろ身につけている。逆に生きるために格別の苦労をしなくても長生きできる文明人は必然的に繁殖力が弱くなるということなのか。高齢化・少子社会は自然の摂理なのかと妙に納得したりしています。



参考酢料:小学国語 3・上 「ひろがる言葉」 教育出版
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by love-all-life | 2010-08-20 18:34 | 文芸・アート | Comments(0)

「不思議」


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前回の「砂茶わん」のブログで何か肝心なことを書き落としているように感じてモヤモヤしていました。

貝という下等な生物がベテランの陶工も顔負けの美しい造形をすることは驚きではありますが、このような不思議はなにも早朝に海岸まで行かなくてもいくらでも身の回りに転がっていることに気づきます。

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庭にゴーヤを1本植えました。芽が出てツルが伸びはじめました。支え棒を立てないでいたらツルは頼りなげに伸びてやがて20センチほど離れたシュロの幹に向かい始めました。いまツルはシュロの一番上まで伸びて、今度は隣の椿に向かいつつあります。ゴーヤには目があるか目に代わる不思議なセンサーを備えているとしか考えられません。
1本のチューリップが細い茎の頭にあんな大きな花をつけて強風にも耐えて立っていられる姿には、技術王国日本の粋を集めて作った東京スカイツリーも太刀打ちできないでしょう。
わたしたち日本人は昔からこのような不思議や自然の驚異を八百万(やおよろず)の神として素直に敬意をもって受け入れ、それらを祭り、楽しみ、文化としてしまうところがります。

ところがつい最近不思議の「不」をとった「思議」という言葉があることを知りました。
鈴木大拙の「東洋的な見方」(岩波文庫)の一節です。
「思議の世界と不思議の世界と、この二つがあることを知らねばならぬ。思議の世界は知性の世界である。知性の特性は、何でもを、まず二つに分けて、それから考え出すのである。」
大拙は、思議の世界は物事を分析し、白黒、正邪、善悪、をはっきりさせる西洋の世界観であって、それに対して物事を分けないで両方合わせ呑むのが東洋の世界観であると言っています。思議の世界からユダヤ教・キリスト教が生まれ、サイエンスが生まれ、不思議の世界から東洋的仏教思想が生まれたということのようです。


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夏というと昔は活発だったお化けや幽霊の存在も昨今はすっかり影が薄くなってしまいました。
普段西欧的現代生活を謳歌しているわれわれも、たまにはこころの奥に保持している東洋的スピリッツを取り出して、「不思議」とじっくり向かい合ってみるのも夏を楽しむ一策ではないでしょうか。


絵:お岩さん 葛飾北斎「百物語」
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by love-all-life | 2010-07-22 10:39 | 文芸・アート | Comments(0)

今年はタコ年?

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べつにタコ焼きファンでもないジイジにとって、タコといえば普段はお正月のおせちに入っているタコを2、3枚いただくほどのお付き合いしかありません。
ところが今年はどういうわけかタコと縁が深い年となりました。

ことの起こりはこの夏に開催される瀬戸内国際芸術祭と関わりができたことからでした。
近年なにかと話題の直島をはじめとする瀬戸内海の島々を舞台とする国際芸術祭に、親しいご近所の方の弟さんが公募するというので、新潟の大地の芸術祭を見てきた経験などお話していたら、なんとたくさんの応募のなかから難関を突破してプロジェクトが採用されたのです。そんなご縁で今回の芸術祭の舞台となる7つの島のなかでもいちばん小さな男木島でのプロジェクトのお手伝いで何度か島を訪れました。この過疎の離れ小島のことは話すことが一杯あるのですが、ここではタコの話に絞りましょう。

その昔源平の合戦があった海域に、周囲4キロちょっとの小山ひとつが浮かんだような男木島の産物と云えば海産物だけ。なかでもタコは島の特産物であるらしく島のいたるところにタコの存在を窺うことができます。

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民家の庭先や港にはタコ壷が山積みされていますし、集落の坂道のあちこちにそそり立つ竿は鯉のぼりの竿と思いきやタコの日干し用でした。ここで干されたタコはいわばタコのスルメですが、これがとても硬くて年寄りの歯には立ちません。
島のお料理と云えばほとんどが海産物ですが、そのかなでも定番は「タコ天」、その他にもタコの酢のもの、煮付けなどが食卓狭しと並びます。

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一夜島民の家に宿をお借りしました。港を足下に、浜風を受けながらはるかに島々が浮かぶ瀬戸内の落日を望む絶景の庭で薪を焚いての晩餐となりましたが、主人が用意してくれたメインディッシュは煮立った大鍋に3尾のタコをぶち込んだ茹タコでした。このタコは翌日の朝食にも昼食にも出てきました。
男木島の住民のほとんどはお年寄りだというのに、どんな食生活をしているのだろうか。タコを柔らかく食べる特別なレシピをもっているのだろうか、それともよほど健康な歯の持主たちなのだろうか、ジイジの単純な疑問でした。

さて、情報から遠ざかっていた島から帰るとサッカー・ワールドカップが大詰め。新聞に目を通すと飛込んできたのが試合の結果を予言してすべて的中させたドイツのタコの「パウル君」の話題です。

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ついには決勝戦のスペインの優勝までみごと的中させてしまいました。単に偶然が重なっただけなのかタコには超能力があるのか。日本では参院選挙戦の結果をタコに占わせていましたが、こちらのタコは最後まで選択をためらったそうです。日本の政局の複雑怪奇さを見抜くとはやはりタコには超能力があるのかもしれません。
となると男木島であれほどタコ三昧をしたジイジは幾ばくかの超能力を摂取したはずとの期待も高まろうというものです。


瀬戸内国際芸術祭2010 http://setouchi-artfest.jp/
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by love-all-life | 2010-07-12 21:03 | 文芸・アート | Comments(0)

孤独な漂着物

メキシコ湾でのBP原油流出事故による環境破壊/生態系破壊が深刻な問題となっています。
ジイジは新潟にいて、1997年の日本海でのロシア船籍タンカーの座礁による重油流出事故を柏崎の海岸に流木拾いに行って体験しています。波打ち際のあちこちにへばりついたベトベトのアスファルトの塊のようなものはどんな機械力をもってしても除去できず、結局何10キロにもおよぶ汚染された海岸を漁民やボランティアが悲痛な表情でコツコツとヒシャクで掬い取っている姿が忘れられません。今回の事故はそれとは比較しようもないほど大きなスケールのようで、オバマさんの政治的立場さえ危うくしています。
時を同じくして宇宙の果てまで生活圏にしようとの実験がくり返される一方で、すぐ足元の海底に開いたほんの小さな穴が塞げないとは、科学技術がいかにいびつなかたち進展しているかを象徴する皮肉な話と言うほかありません。

海岸というところは鳥瞰すると開放的な大自然を愛でる癒しの場であるかのようでいて、虫の視点で見ると人間社会の歪みや矛盾を映し出す鏡でもあります。
ジイジ、バアバの流木拾いも決して白砂青松の気楽なぶらぶら歩きではなくて、波打ち際に吹き寄せられたゴミの山との格闘となります。そこはあらゆる傷ついたもの、捨てられたもの、壊れたもの、死んだものの集積場なのです。幸いにして波や風や光といった悠久の自然の力によって浄化されていく過程なのか、醜悪や不潔を感じることはあまりありませんが、どれもどこか寂しさや孤独感をにじませて佇んでいます。


ひとつひとつの「ゴミ」が辿って来た身の上話を聞きとれる詩人の感性があったらなぁと悔やんでいます。

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by love-all-life | 2010-06-07 23:13 | 文芸・アート | Comments(0)

春になると

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昨日東京へ出たついでに丸善でカレル・チャペックの「園芸家12ヶ月」を買いました。これでこの本を買うのは多分4冊目だと思います。人との話が園芸におよぶと500円ほどの文庫本という気安さもあって「これ、面白いよ」といつも手許にあるものをあげてしまうので、自分が読みたくなる時にまた買ってくるからでなのす。


e0153357_1091152.jpgカレル・チャペック(1890〜1938)というチェコの作家への興味はバアバを通じてでした。それまでは「ロボット」という言葉の生みの親ということくらいしか知りませんでしたが、バアバが何冊か読んでいてその独特のシニカルでユーモアに満ちた世界の虜になっていたからです。

1989年にジイジが会社勤めを辞めたのを機に、シシリーからスタートしてイタリアの街々とウィーンを珍しくゆったりと時間をかけて旅行したとき、バアバがどうしても行きたいというのでプラハも旅程に組み込みました。
共産主義のくびきから解放されて間もなかったプラハは、それまでの西欧の街にくらべてどこか寂しさを滲ませているものの、映画「アマデウス」の舞台となった18世紀のウィーンの撮影ロケに使われた美しい街とモーツアルトの音と香りを堪能することができました。

ところがバアバはそれだけでは満足せず、どうしてもチャペックの家に行ってみたいと言うのです。ドイツ語もロシア語もましてやチェコ語もまったくわからず、何の予備知識もない家を探そうというのですから、バアバはいつも大胆不敵なのです。
本屋さんを探しては店員に「チャペック、チャペック」と言葉をくり返すことしかできないのですから相手も驚いたことと思います。それでもチェコの国民的作家の名前を連呼する日本人にはとても好意的で、ずいぶん時間がかかりましたが、どうにか地図で場所を示してくれる店に出会いました。プラハの郊外の駅まで地下鉄で行って、地図を頼りに中流の上といった住宅地を10分ほど歩いて、ついに表札にチャペック兄弟の名を刻んだ2所帯住宅のような家にたどり着きました。苦労してたどり着いたうれしさに思わず玄関のベルを押してしまいましたが、幸か不幸か誰もいない様子で、もし誰かが出てきたらどうするつもりだったかいま考えると冷汗が出ます。


e0153357_10111995.jpg裏に回ると「園芸家12ヶ月」の舞台となったチャペック兄弟が丹精して庭作りをしていたバックヤードがあります。今は誰が管理しているのか分からないまま、多種の草花が渾然と植え込んである変化に富んだガーデニングをしっかり目に焼き付けてきました。


ジイジが「園芸家12ヶ月」を人に薦めるのにはこんな思い出があるのです。
いずれチャペックの園芸術にしたがって庭づくりをするのがジイジ・バアバの夢であり、春が近づくと本棚から消えた「園芸家12ヶ月」をまた買ってくるというのもこうしたわけなのです。

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by love-all-life | 2010-03-06 10:35 | 文芸・アート | Comments(1)

立春




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朝はふとんから出るのに何度も決心をしなければならないほどの寒さでした。
立春の朝はいつも「えッ、もう立春」って言っているような気がします。

今朝の「天声人語を」もたくさんのウンチクを傾けて春を待ちわびる文を綴っていました。
その文の締めくくりの部分で、氷が溶けたら何になる?というテストで「春になる」と答えた子の話が紹介されていました。
これ、実はジイジも大学にいたころ毎年学生に同じ質問をしていました。えッ、大学生に、と思われるかもしれませんが、べつに科学の話でも,とんち話でもありません。デザインとは何かの話なのです。

Q.「氷が溶けると何になる?」
A.「水になります」
Q.「他に?」
A.「???」
Q.「他にないの?」
A.「・・・・」
Q.「何でもいいから言ってごらん」
A.「・・・春になります」
Q.「よろしい!」
こんなやりとりがあります。

こちらの言いたいことは、デザインの世界にはたった一つの「正しい答え」なんかない、たくさんの答えのなから「よい答え」を探すのがデザインするということなんだ、さらに言うとその答えが「人のこころを動かす答え」であって欲しいということなのです。
「よい」の中身は「使いやすい」「美しい」「もっていると心がなごむ」「いつまでも一緒にいたい」そして「環境にやさしい」などが含まれます。


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考えてみると「正しい答え」より「よい答え」「こころに触れる答え」というのは、なにもデザインの世界だけのものではないと思えます。
「正しい」「正しくない」でものごとを律すると、とかくギクシャクした状況が生まれます。その最たるものが戦争です。古今東西どんな戦争も「正義」と「正義」が譲り合わないで起るのです。

世の中、「いいねェ」「これ美しいでしょ」で律したら、もっと平和で心地よくなると思うのですが・・・。
近頃の文科省の顔、そっちに向いているとは思えませんねェ。
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by love-all-life | 2010-02-04 17:25 | 文芸・アート | Comments(3)