HAND & SOUL

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スマホ時代

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スマホの時代だそうです。
スマートフォンの売上がケイタイを抜いて、個人の情報授受の手段がケイタイからスマートフォンにとって代わられるだけでなく、スマホでは電話はその機能のほんの一部であって、パソコン機能をも併せ持つので、実に膨大な情報が手許で自由に扱える、誠に便利なものだそうです。
なにをいまさらと、若い人からバカにされそうですが、ケイタイで写真は撮らない、メールさえ送らないジイジにとっては、スマホがあれば便利なんだろうなということを憶測するものの、やれやれまた一歩時代に取り残されてしまった、というのが実感です。
なにせジイジの子供の頃は、まだ電話でさえ企業や郵便局や、ごく限られたお金持ちのお宅にあるだけで、普通の家庭では何か急なことがあると、電話のあるお宅の電話を拝借したり、電報を利用したものでした。だから、「電話ですよ」とか「電報ですよ」と言われると、「誰かが亡くなったのか!」とドキッとしたものです。

では情報過疎の世では、情報が軽んじられていたかというと、そんなことはありません。逆に得難いから情報を手にすることの重みがあったといえます。ナポレオンの敗戦の情報をいち早く手にいれたロスチャイルドが巨万の富を築き、東西の情報に通じていたが故に財を成した紀ノ国屋文左衛門の例をみるまでもなく、情報の有無が国や人の運命を左右するといった例は昔から枚挙にいとまがありません。
しかし逆に今のように、誰でもがどんな情報でも手にし得るということになると、もし自分だけが知らない情報があったら大変だという脅迫観念からネットやケイタイに見入り、情報に接したことでとりあえずホッとする・・・一日中情報と向かい合っているようでいて何の情報も得ていない、これが現代人と情報の関係だとすると、まさにモノの大量生産、大量消費、大量廃棄の構図が情報に置き換わっただけということになります。
情報が少なければそれだけ情報の相対的価値は高まるのは、空腹時のおにぎり一個は、満腹時の珍味より数段おいしいのと同じです。ひとつひとつの情報を大切に吟味しチエを加えて活かす、これこそ本来の情報化社会のあるべき姿ではないか考えるのですが、ここでもLESS IS MORの意味を思い起こして欲しいと思います。

スマホにしろケイタイにしろ、360度果てしなく広がる世界、いや宇宙空間の中で、たった10センチにも充たない四角の画面の中にだけ世界のすべてがあるかのように情報端末にしがみついている若者を見ていると、やはりどこか変だと思わざるを得ません。
指の先と眼だけに頼って生きている新生物のようです。鼻を使え、舌を使え、感触を楽しめ。手を使え、筋肉を使え、ジャンプしろ、走れ。答えにすぐに飛びつくのではなく自分の頭で考えろ。天が与えた「人」としての機能をフルに駆使しろ。何と言う肉体の怠惰、時間の浪費。槍を手に荒野を駆け巡る野人を美しいと感じないか、と言いたくなってしまいますが、これは時間も体力も残りわずかの負け犬の遠吠えなのでしょうか。

(カット写真:10-ways-the-mobile-web-is-differentより)
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by love-all-life | 2011-08-27 21:27 | 時事・社会 | Comments(0)

8月15日の夢想


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子供だったジイジの戦争の記憶のひとつに、太平洋戦争末期、圧倒的な物量で怒濤の如く本土に迫る米軍にたいし、竹槍をもって波打ち際で敵を防ぐだと民間人に特訓を強いた日本軍の姿があります。米兵は臆病だから、武士道精神や大和魂もってすれば何十倍の敵であっても恐れることはないと洗脳され、それをなかば信じたがっていた日本人も、この頃にはどうもこの戦争は負け戦らしいと感じていました。

今となれば、まさに狂気としか言いようのない滑稽でかつ悲しい時代錯誤的あがきであったわけですが、8月11日付けの朝日新聞に掲載された、福島県災害対策本部が作成した、「被曝量を減らす」ための手引きとして、福島第一原発事故で、地域一帯に飛散した放射能性物質を取り除く最善の方法として紹介された図を見て、ふとあの戦争時代の記憶が甦りました。

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多分、放射能という先端技術の粋が生み出した鬼っ子に対するに、マスク、長靴、雨合羽、床ブラシで立ち向かう牧歌的な絵が、どこか時代錯誤的な雰囲気をもっていたからでしょう。
しかし、たとえ絵の雰囲気が時代錯誤的だとしても、これは生々しい現実であり、ある意味で現代社会の歪みを映し出した、最も今的な情景なのです。
なにが今的かというと、「○○ちゃん、遊んだらちゃんと後片付けをしなさい!」・・・これができていない社会なのです。
欲求や必要に応じて次から次へとモノを生み出すことが進歩だ、発展だとして、莫大な費用、技術、人知を惜しみなく注ぎ込みますが、そのモノの役割が終わった後の始末には費用も、技術も、人知も殆どおよばない。リサイクルだエコだとの声もありますが、まだまだほんの序の口にすぎないレベルです。そのなによりの証拠がフクシマの放射能飛散の後始末についての混乱、無能ぶりであり、そして前掲の絵のような時代錯誤的情景の出現です。

社会の構造として「後始末」を考える時代になったと感じます。循環・排泄重視社会とよんでもいいかもしれません。モノを食べたら消化し、栄養を得、快適な排泄をする(排泄には快感が伴うところがミソ)・・・こんなわれわれ自身の身体のような社会をつくる。つまり自然を見習えということでしょうか。
加齢で消化器系にトラブルが多くなってきたジイジはこんな夢想をします。
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by love-all-life | 2011-08-14 18:20 | 時事・社会 | Comments(0)

HAND & SOUL「モノ」がたり 79 < 椅子だった椅子>

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1年ほど前にHAND & SOULの隣地に住んでいたお年寄りが施設に移り、住居を撤去し、その跡地が分譲されるので、植木や家財道具の多くが産廃業者によって廃棄処分されることになりました。
縁者の方が来て、ご入用のものがあったらご自由にということになったので、梅や杏や五葉の松などの樹木や草花の株は、庭にゆとりのあるご近所に引き取りとられましたが、移植に費用のかかる大きな樹木や、名も定かでない(こちらが知らないだけですが・・・)多くの木がブルトーザーでなぎ倒されました。骨董価値のない家具類も家屋の廃材と一緒にゴミと化し、トラックに積み上げられました。そんな中に食堂で使われていたであろう、かなり傷んだ木製の椅子があったのでもらい受けました。

去年夏開催された「2010瀬戸内国際芸術祭」の椅子プロジェクトをお手伝いして以来、古くなった椅子の再生に興味がありました。その時は、瀬戸内海の小さな離島で、島の人が供出してくれる使い古された椅子を、船板や流木などを使って再生して、坂道の多い島の路地に置いて、憩のスポットをつくるという企画でした。費用の制約や遠隔地での作業という条件のなかで、なかなかこちらが思うようなかたちでコトが進まなかったこともあり、一度手許で時間をかけ、好きなように古椅子と付き合ってみたいと思っていました。そしてその機会到来というわけです。

家人は、またガラクタを持ち込んでと苦い顔をしていましたが、椅子を壊してよいと聞いて二番目の孫Rは大喜びです。普段のゲームに向かっているときより眼を二倍くらい大きく見開いて、使い慣れない工具で椅子のと格闘が始まりました。
「ヘーッ、椅子って、こんなになっているんだ」といろんな発見があり、その興奮の姿を見ただけでも椅子を貰ってよかったと思いました。

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孫が、背と座の布を切り裂き、アンコのスポンジをちぎりとり、芯の板をぶち抜いて、骨格だけの姿にします。その後はジイジがサンダーでニスを全部削り取り、ヌードの椅子が3脚出現しました。

さぁ、これをどう料理するか・・・、アイディア出しの苦しみと楽しみを存分に味わうのはジイジです。
どんな再生椅子になるか、まだ皆目未定ですが、タイトルだけは決めました。「椅子だった椅子」です。
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by love-all-life | 2011-08-06 20:00 | 「モノ」がたり | Comments(0)

臨時休業のお知らせ

8月7日(日)は。都合により臨時休業とさせていただきます。
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by love-all-life | 2011-08-05 08:49 | Comments(0)