HAND & SOUL

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垣根の、垣根の、曲がり角

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先日の台風15号の強風と塩害の影響が大きく、いつもなら紅葉の錦で主役を演ずるナナカマドやモミジが早くも葉を落とし、紅葉より先に落ち葉掃除に追われます。水曜日の剪定ゴミ収集の日には何袋もの落ち葉を出すのですが、それでもかき集めればいくらでも溜まる落ち葉を見て、孫たちがたき火がしたいとせがみます。
よっしゃ!と受けてやりたいところですが、「止めといた方がいいわよ」と言う家人の声に、はてさて、たき火はしてよいものか迷います。

かきねの かきねの まがりかど・・・

懐かしい童謡を口ずさむまでもなく、昔からたき火はこの季節の風物詩だったし、さかのぼれば30万年前の人類の足跡の証がたき火であったというくらい縁の深い「火」との戯れが、やってはいけないことなのだろうか?そもそもたき火は禁じられていることなのか?

そこでネットにお伺いを立てることにしました。
たき火をしたい人、たき火で迷惑を被っている人、双方からの質問やそれに対する回答がたくさんあって勉強になります。
もろもろ総合すると・・・
やっぱり・・・ たき火は原則として、行ってはいけないことになっているのです。
煙や匂いを迷惑とする都市化や非寛容社会の出現という事情などありますが、主な理由は、ダイオキシン問題が取りざたされた平成13年に廃棄物処理法が改正され、廃棄物の野外焼却、いわゆる野焼きが一部の例外を除き禁止となったとあります。
一部の例外には、伝統的行事や風俗慣習上の行事のための焼却行為などいくつかあって、そのなかに「落ち葉等の一過性の軽微なたき火」も入っていました。ま、ちょっとした落ち葉焚き程度なら大目にみてやってもいいというニュアンスです。ただし、周辺の生活環境にできる限り配慮しなければなりませんと断り書きがついています。
なんだか執行猶予を言い渡された囚人のような後ろめたさにはやや不満はありましたが、孫たちに「火の用心」のこころ構えや、ジイジがここまで気を使ったことを話して聞かせ、バケツに水の用意などさせてから、やっと子供たちの笑顔に向き合うことができました。

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バーベキュー用の着火剤を捜し廻る子供たちを制して、火のおこし方を伝授します。ひねった新聞紙の上に木っ端を乗せ着火し、徐々に太い枝を乗せ、頃合いをみて落ち葉を被せる・・・そう教えても、すぐに上手くできるわけではありません。これが上手くいくかどうかはすべて「具合」「頃合い」「あんばい」を見計らってのことです。
掌中のスマホの画面を手品のように操ってみせる彼らの手も、こういう「見計らい」や「あんばい」の作業となるとお手上げです。
ジイジは、「ざまーみろ」という内心は隠して、HAND と SOULについてひとしきり諭して聞かせ、
苦戦のうえ、煙に燻され、くしゃくしゃな顔になった子供たちには、「世界で一番うまい焼き芋」のご褒美がありました。

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by love-all-life | 2011-10-30 12:02 | 時事・社会 | Comments(1)

クリプトゾイック

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本を読んでいたら「クリプトゾイック」という言葉に出会いました。
生物学の古い用語ですが、最近では文明のわきで密かに生きることをおぼえ、文明に適応してしまった野生動物たち、たとえばアライグマやフクロウネズミなどの生活形態を表す用語として使われるのだそうです。
身近なところでは、「密かに生きる」とは到底いえないけれどカラスがその代表でしょうし、電話線などを齧って駆除の対象になってしまうタイワンリスや、海岸でくつろぐ観光客のお弁当をかっさらうトンビ、ウチの軒先で巣作りをしてくれないかと恋いこがれるツバメなども、その仲間なんでしょう。
ところで、近頃この時期になるとニュース種になるクマはどうなんだろう?
昨年豊作だったドングリが今年は一転して少なくなったため、人里にエサを求めて現れるとされてますが、かれらからみれば、身近に迫って来た人の生活圏なら比較的楽にエサを確保できることを覚えてしまったからでしょう。大きいし力もあるので、「密かに生きる」というわけにはいかず、ちょっと姿を見せるだけでも大騒ぎになり、猟銃会のにわか猟師の銃弾の犠牲になってしまうわけです。なんとか「クリプトゾイック」な存在でいて、われわれと共生して欲しいと願うばかりです。

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「クリプトゾイック」がヒトの側から自然界をみた用語であるとすると、自然界からヒトを眺めるとどうなるか?
年がら年中子づくりの真似事をし、自らの安全と快楽のために後から後から道具を開発し、資源とエネルギーを浪費しながら決して満足することを知らない、「密かに生きる」と対極にある生き物。近頃の原発事故で安全や快楽のコストがあまりにも高くつくことに気づきながら、生活形態を変えようとしない。自然に適応するより自然を適応させようと空しい努力を続ける生き物「ブンメイジン」ということになるのかしらん。
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by love-all-life | 2011-10-24 08:11 | 自然 | Comments(0)

HAND & SOUL「モノ」がたり 81 <「縫い」体験>

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HAND & SOULでは、衣類や縫いぐるみ、バッグのような布ものの作品はバアバの守備範囲ということになっています。ところがすでにご紹介した「椅子になった椅子」で、椅子の座や背を麻ひもを布で巻いたロープで編む作業でミシンを使う体験をしたジイジは、「縫い」の面白さの一端に触れた気がしました。そこで、今度は端布を使ってのクッションの絵付けにチャレンジしてみました。

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顧みるとジイジにとって「縫う」という体験は初めてのことではありません。
66年前、太平洋戦争が終わって、戦前の日本の生活習慣や価値観はすべて「ホーケンテキ」という言葉で一括して排除され、代わって何事も「ミンシュシュギ」でなければならないということになり、戦後新しくなった教育制度で始まった家庭科では、「男女ドーケン」ということで、女の仕事とされていた料理や裁縫を男子生徒もやることになり、これがジイジにとっての「縫い」の初体験でした。
授業は、まず針と糸の使い方(いわゆる運針です)を雑巾づくりで教わり、家から持ってきた穴のあいた靴下の継ぎ当てをしました。次の授業では自分のパンツもつくるというきわめて実践的なものでした。
「縫う」で次に思い出すのは、母のミシンを踏む姿です。戦後の食料の不足した時代に、都市部の家庭では箪笥の中の衣類はおろか日々着ているものまで郊外の農家に持って行って、穀類や野菜などと物々交換してもらうのです。いわゆる「買い出し」で、こうした暮らしを「タケノコ生活」と言いました。必然的に当面の着る衣類に事欠きますから、主婦は家族の着るものを自分で縫うことになります。こうして洗濯機や掃除機などの家電製品が出回る前に戦後いち早く普及したのがミシンでした。
裁縫が得意だった母は戦前から足踏みのアメリカ製のシンガーミシンを持っていて、家族のものだけでなく、人さまの依頼も受けていました。そのうち横浜元町の老舗洋品店の下請けをして家計の足しにしていました。何度か母のミシンをいじくったことがありますが、まだマイカーがなかった時代、ペダルの動きに合わせて複雑に縫い進む針と糸の動きは、カチャカチャという音とともに、機械というもの威力を知る原体験としてジイジの心の片隅に体内化しています。

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今度久しぶりに触れたミシンは、音も動きも軽快でいろいろ便利な機能がついていますが、使い手の技術の方は60年を経たいまも少しも変わっていません。ヨロヨロした頼りなげな縫い目の線は、鉛筆でも、筆でも、むろんパソコンでも出せないもので、それが却って魅力に感じられました。バアバが押し入れに大事にしまい込んでいる端布を惜しげも無く割いて、無邪気にミシンで縫い付けるジイジの姿はまるで小学3年生だったずです。
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by love-all-life | 2011-10-17 09:43 | 「モノ」がたり | Comments(0)

貪欲であれ、愚かであれ。

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昨日朝メールチェックをしたときには、何事もなかったのに、夕方、一日のとりとめもない作業を終えて、卓上のMacBook Proをスイッチオンしたとたんに場面一杯にスティーブ・ジョブズの胸像写真が現れてドキッとし、横にSteve Jobs 1955-2011 の文字を見た瞬間に事態を理解しました。

個人的に付き合いのない人の死にある種のショックを受けるのは、最近ではオサマ・ビンラディン、古くは三島由紀夫の名が脳裏をよぎります。決して神のように崇拝していたというわけではないのですが、彼らの存在が当方のそのときそのときの価値観や美意識のある部分を支えていたということでしょうか。
スティーブ・ジョブズについていえば、彼の生きざまや言動はつねにカッコよかったし、生み出す製品の革新性も型破りではありますが、 ジイジにとって彼はデザインの存在意義や魅力を具現化したヒーローということになります。

長年デザイン関にわりをもってきた者として、彼の大きさはデザインの力が企業を変え、人々の仕事や生活を変え、世の中を変えることができることを実証した数少ない人物のひとりと思うのです。
最初に手にしたパソコンから現在までMacに忠誠を尽くしてきたのは、コンピュータ音痴でも使える道具という機能面と、すっきりとシンプルなフォルムというデザインの要件を満たしているという以上の何かを感じるからです。それはあえて言えばチャームとでも言うのでしょうか、親しく付き合っていたい友人に対して抱く感情のようなものです。
この気持を適切に代弁してくれている言葉があります。テレンス・コンランがグッド・デザインとは何かを語った言葉です。

「デザインは98%常識であると考えたい。しかしデザインをこれほど面白くやりがいある作業にしているのは残る2%、すなわち「美意識」と呼ばれるものである。98%を達成している製品は大体「よい」ことは明白である。だが残りの2%こそ、製品をまったく別のカテゴリーに引き上げる魔法の成分である。この2%こそが、水準は満たしているというものと、えも言われぬ特別の製品で誰でもが欲しいと思うものとの差を生むのである。
魔法の成分があるだけで、生活の質がずっと改良される。人々がその製品を使うと幸せになり、うれしくなるのは、単にその製品が充分機能を果すからというだけでなく、精神を高揚させ、ただ不満がないというだけでない積極的な喜びを与えてくれるからである。」

この言葉がスティーブ・ジョブズにそのまま当てはまらないのは、彼の仕事が常識を超えることからスタートしているという点でしょうか。
「貪欲であれ、愚かであれ。」と、彼が胸をはって宣言できる所以でしょう。
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by love-all-life | 2011-10-07 09:07 | 文芸・アート | Comments(0)

落ち葉は、汚い? 美しい?

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先日の台風15号の塩分を含んだ強風の影響なのでしょう、落葉樹の葉が色づくまえに、くすんだ緑色に変色しパラパラと落ちてきて、今年は早くも落ち葉掃除の時期となりました。

落ち葉は汚いか、美しいか、毎秋の庭木の落ち葉をどうするか、残しておくか、掃き清めるか、なかなか悩ましいことです。
わが家が人里離れた一軒家だったら、多分落ち葉は散るにまかせて、一面(と言っても猫の額ですが)の錦の絨毯を楽しみたいところです。ところが近隣に人家が迫ると、落ち葉の処理を自分の趣向だけで決めるわけにはいかなくなります。
庭木の落ち葉は、当然のことながら自分の家の敷地内だけに落ちるわけではありません。ましてわが家のように、崖の小高いところに住んでいると、わが庭木の落ち葉は下の路地や隣地に降り注ぐことになります。
隣近所もうちと同じ趣向なら問題はないのですが、大抵のお宅では落ち葉をきれいに掃き清めることが礼儀と心得ています。

昔からのお屋敷が分譲宅地になって新築工事が始まり、騒音に加えてガス工事だ水道工事だと交通規制で少なからず迷惑を被ったあげくに、引っ越してきたら、今度は落ち葉が汚いと陰で苦情を言われては、「じゃ、なんで引っ越して来たの」とこちらも苦情を返したくもなります。
しかし、地形から当方の落ち葉が近隣に飛び散る比率が、他家のものがわが家に飛んでくるより圧倒的に多いとなると、昔と同じ暮らしをしていても近所迷惑をしていることになってしまうのです。

江戸期の俳人鬼貫は、秋の七草ススキについて「心なき人には風情を隠し、心あらん人には風情を顕はす。只その人の程々に見ゆるなるべし」と説いたそうです( 2011.10.2 朝日新聞「天声人語」)。
ススキを落ち葉におき代えれば幾分心も安らぐし、苦役と思えた落ち葉掃除の日課も、自然との戯れのひと時との境地になれれば、人生の持ち時間を少しでも無駄にしないで済むというものです。
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by love-all-life | 2011-10-02 10:23 | 自然 | Comments(0)