HAND & SOUL

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国境のトンネルを抜けると・・・



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長岡へ行ってきました。
懇意にしていただいているギャラリーでの展示が終わって作品の搬出をしてきたのです。
いつものように、老いたわれわれに似合いのオンボロ軽自動車(車に聞こえると気を悪くするので、ここだけの話ですが・・・)で、往復600キロを走ってきました。
鎌倉、長岡間を関越自動車道で往復するのは、この20年間におそらく300回を下らないと思いますが、東京を抜け、しばらくはやや退屈な平地を走ってから徐々に山地に向かい、分水嶺の越後山脈の下をうがつ関越トンネルを抜けて、今度は徐々に日本海へと下っていく関越自動車道は、何回走っても飽きることがありません。
越後川口から堀之内にかけての越後三山や魚野川を望む自然景観など見どころは少なくありませんが、なかでも関越トンネルを挟む景観の変化は旅の楽しみの文字通り山場です。

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かのノーベル文学賞作家の有名な「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の言葉通り、カラッと乾燥しきった青空の下、柳宗理デザインの関越トンネルを東京側から入って7分(多くの車は5分で)、パッと一面の銀世界が目に飛込んでくるというような、越後側に抜けた瞬間の南北の景観の落差が楽しみなのです。あるときは晴天が吹雪になったり、夏の名残りがいきなり紅葉の錦になったり、またあるときは萌える若葉が満開の桜に戻ったり、逆に越後側が濡れ布団のように重い曇天だったのに水上側では天高く馬肥ゆるの秋だったりと、二つの天候や季節が行き来します。

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天気情報であらかじめその日の雲行きは知ってはいるものの、肉眼が捕えた視覚情報が直に脳に与えるインパクトは知識をはるかに圧倒します。お芝居の舞台装置が幕の上げ下げでガラッと変るように、まさにドラマッチックな転換なのです。
普通、道を南北に長距離走れば、高い山に登るのと同じように季節感が変るのは当たり前のことですが、それは、いつの間にか咲いている花が変ったとか、なんだか少し寒くなったとか徐々に進行します。しかし関越トンネルの場合は、目をつぶって開いたらすべてが変ってしまったというような文字通り劇的な変化なのです。
これを越後山脈を舞台装置とする演劇空間として越後の観光資源としてもっと売り出せばいいのにと思うほどです。
それにつけても昭和6年に完成して間もない上越線の清水トンネルを越後へと旅した一人の作家が、その体験を自作の小説の冒頭で「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という端的な表現に凝縮させた慧眼は、たしかにノーベル賞ものとい言えるのかも知れません。
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by love-all-life | 2011-12-25 00:51 | その他 | Comments(0)

蟻が十なら・・・

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もの忘れをよくします。起きている時間の半分は何かモノ探しをしているのではないかと思えるどです。いま読み終えた本に何が書いてあったか思い出そうとしてもかなり危ないのです。それで新聞や本を読んで、これはと思う記述に出会ったときは、スキャンしたり、パソコンにメモを残したり、何かの時に備えるようになりました。いわば備忘録ファイルをつくるわけです。
ところが何を記録したかの記憶もかなり危ないので、ときにチェックしたりするのですが、すると、「ふむふむ」、「はるほど」と改めて感心したり驚いたりするのですから世話ありません。

ま、そんな備忘録から取り出した、新聞の投書欄の記事です。



「蟻が十なら芋虫いくつ」
パート 佐古勇治(東京都世田谷区 55)

特別養老老人ホームで働いて1年数カ月が過ぎました。つらいこともあれば、楽しいこともあり、他の職種と変りません。
でも、先日、ちょっと変ったことがありました。ある夜、お年寄りの女性が氷をほしいというのであげると「蟻が十(ありがとう)なら、芋虫は二十」と言ったのです。驚きました。何年ぶりに聞いたでしょう。母がよく言っていた言葉なのです。
その女性に親しみを感じ、ここで働いていてよかったと思いました。当時、心が少し不安定になっていた私に、この言葉は助けとなってくれたようです。
「ありがとう」という言葉が好きで、両親に線香を上るとき、また役立ってくれた物を捨てるときなどに、私は「ありがとう」と言います。でも、面と向かって言われると、逆に照れるときもあります。そんなとき、「芋虫は二十ね」と返せば、相手にユーモアが伝わるかもしれません。
今後、ゴミを捨てるとき、私が「ありがとう」と言ったら、そばでカラスがそれを聞いて、「芋虫は二十」と言ってくれないかな。



こんな風に、子どもがおもちゃ箱から宝物を取り出して悦に入るように、ときどき備忘ファイルから言葉を取り出して、何度もホットしたり、ハッとしたりできるのも、物忘れの効用かもしれませんよ。

写真:北鎌倉の旧北大路魯山人邸の裏山からの尾根道。記憶の細道のように思えたので・・・
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by love-all-life | 2011-12-15 19:56 | その他 | Comments(0)

44年目のミルトン・グレイサー

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1967年・春、ニューヨークにいました。ワシントン広場やセントラル・パークには、水仙の花を手にしたフラワーチルドレンと称するヒッピーたちのが群れが世界平和を唱えベトナム戦争に反対し、片や5番街では、若者たちのどこかひよわな叫びを踏みにじるかのように、在郷軍人会のベテラン兵士たちを先頭とする圧倒的な大パレードが、「I proud of my son in Vietnam」と大書した横断幕を掲げて行進していました。
グラフィック・デザイナーとして百貨店の仕事などしていたアンディ・ウォーホールが一躍アートの世界の寵児としてもてはやされ、ピーター・マックスの派手なパターンが街に溢れていました。

この年、ニューヨークで親会社の広告代理店で研修を受けていたジイジには、広告デザインの世界に入る動機となった憧れの対象がありました。知的でクリエイティブなフォルクスワーゲンの広告キャンペーンを展開していたD.D.B.と、ニューヨークのエスプリとでもいえるデザインとイラストレーションの団体で、ミルトン・グレイサーやポール・デイビスやシーモア・クワストなどを擁するプッシュピン・スタジオの仕事です。
そしてそれらの仕事はどれもそのとき通っていたオフィスから歩いて数分のところで生まれていたのですから、それらはもう遠い憧れではなく、若干の妬みが加わった身近に感じられる存在でもありました。

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ある日世話をしてくれていた上役にプッシュピン・スタジオを見学したいと話すと、あっさり紹介状を書いてくれました。グランド・セントラル・ステーションにほど近いスタジオで迎えてくれたのは、なんとスタジオの創設者でありリーダーのミルトン・グレイサーで本人でした。そのとき31歳のジイジは、宝塚のスターの前に立った少女のようだったろうと思います。彼は客人に対するいんぎんな態度で、スタジオのことや作品や、隣接するスクール・オブ.ヴィジュアルアートを案内してくれて、帰り際にプッシュピン制作のポスターを紙筒に入れてプレゼントしてくれたのです。当時のジイジにとってそれはピカソの絵より価値のあるもので、このときもらった彼のデザインしたポスターは、すでに真ッ茶色になってジイジの仕事場の壁に今でも貼ってあります。


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あの日から44年。9.11から10年目を迎える、この9月2日の朝日新聞にミルトン・グレイサーのインタビュー記事が掲載されて、なつかしい彼の健在を確認することができました。82歳、自作の「I ♥ NY」に「MORE THAN EVER」を加えたポスターを前に、ゆったり腰掛ける写真の彼にまだまだ衰えの影は窺えません。(彼は44年前も同じように大人風然としていました)
ニューヨークをこよなく愛する彼はインタビューに答えて、9.11以後、テロへの恐怖と愛国心が政治に利用されて、いろいろな社会不正義がまかり通っていることを嘆き、怒りや報復を乗り越えて、「もう終わりにしよう」、他者を思いやることが大切とのロゴをデザインして情報発信をしたいと語っています。成熟した市民がすぐれたセンスとと表現力を手にしたとき、つまりすぐれたグラフィック・デザイナーがどれほど社会にとって有益な存在であるかを証明し続けているかのようで、これだけ長い年月を経ても彼は依然としてジイジにとって憧れの対象なのです。
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by love-all-life | 2011-12-12 07:34 | 時事・社会 | Comments(1)

12月8日

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12月8日。若い人にとってジョン・レノンの命日のこの日は、われわれ世代にとっては大東亜戦争の開戦の日であり、多くのアメリカ人にとっては「リメンバー・パールハーバー」の日です。

この日に5歳だったジイジはその日がどんな有様だったかあまり憶えていません。ただ周辺がなんだか騒がしく、父も母もとても興奮していたようでしたが、どんな発言をしたか、喜んだでいたのか、怒っていたのか、恐怖におののいていたのか定かではありません。ただ悲しみに打ち沈んでいた印象ではありませんでした。
ジイジにとってこの日のイメージは、その後くり返しメディアによって報道されてきた、真珠湾奇襲の新聞記事や写真や、「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。・・・・・アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」という大本営発表のラジオの音声によってカタチづくられています。

開戦直後の連日の連勝で「米・英、何するものぞ!」と日本中が沸き立っていたことはなんとなく憶えていますし、大人たちは本気でこの戦に勝てると信じていたようでしたが、もしかしたら信じようとしていただけなのかもしれません。
ジイジがはっきり知っていることは、毎日のように戦闘機や軍艦の絵を描いていたこと、当然火を噴いて撃墜される飛行機や戦艦にはアメリカのマークをつけていたことです。
しばらくしてラジオを聞いていた母が、ボソっと「この辺でやめればいいのに。」と言っていたことや、戦争末期になって、やはり母が「日本の軍隊って、ほんとうにイヤ」とつぶやいたことは、わりあいはっきり記憶にあります。
その頃から連日のB29の爆撃が激しくなるなか、貧しいものを食べ、貧しいものを着たことは憶えていますが、生活といえるような記憶はなにもありません。そして、間もなく疎開先の和歌山県の農家の炎天下の庭先で、ほとんど何を言っているか聞き取れない玉音放送なるものを聞いて戦争は終わりました。小学3年生の時でした。

近頃、何故日本は勝目のない戦争をしてしまったのか?を解き明かそうとする少なからずの書物が出たり、開戦はアメリカの謀略だったという説を廻っていろいろな議論があるようです。
何故あんな戦争をしてしまったか?
ひとりの善良な個人が、企業人として考えられないような非倫理的な行動をとるというような例はオリンパスに限りませんが、狂気の行動をとった旧陸軍の参謀も、ひとりの父親としては多分とてもやさしい人間だったのでしょう。
人間は、組織や集団の一員となったときには機械の部品のようになってしまうように創られているのでしょうか。

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9.11の同時多発テロの後のアメリカを観ていて、戦争はこのようにして起こるのかと目からウロコでした。というのも昭和16年12月8日にはまだ世の中を視る力もなかったジイジにとって、まるであの頃をリプレイされているようで、記憶のネットから抜け落ちてモウロウとした部分が補われたように感じたものです。
戦争は人間の性なのか、国家の意思の必然なのか・・・、いずれにせよ、「誰でも『戦争は悪いと』言ってるのに、どうして戦争はなくならないの?」という、終戦時のジイジと同じ歳ごろの孫からの質問に答えることは容易ではありません。
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by love-all-life | 2011-12-08 17:23 | 時事・社会 | Comments(0)

HAND & SOUL「モノ」がたり 85 <戦後のクリスマス狂想曲>

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毎年この時期になると、クリスマスにはセールみたいなことやらないの?って聞かれたりします。
改まってクリスマスセールなんて、なんか大げさだなぁなんていっているうちに、ずーっと先のことのように思っていた12月に入ってしまいました。師走という言葉が今年はなんかすごくよそよそしく感じられます。

クリスマスといえば、社会に出たての50年ほど前のクリスマスが忘れられません。
前にも書きましたが、ジイジもバアバも最初の職場は女性専門の百貨店・銀座4丁目の角の三愛で、主にディスプレイの仕事などをしていたのですが、なかでも大仕事といえばクリスマスの飾り付けです。飾り付け自体はひと月以前に済みますが、仕事はクリスマス当日まで続くのです。

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日本が敗戦の廃墟からどうにか復興をとげ、暮らしを楽しむ多少のゆとりが出たことや、アメリカン・カルチャーの洗礼もあって、戦後のこの時期にクリスマス狂想曲といでもいうような不思議な社会現象がありました。
クリスマスイブとなるとすごい数の勤め帰りのサラリーマンが、一様にサンタのとんがり帽子をかぶり、手にクリスマスケーキの箱をぶら下げて街に練り出すのです。
六本木も青山もまだ田舎っぽかった当時、東京の繁華街といえば銀座でした。4丁目の交差点あたりは繰り出した人でギュウギュウ詰め状態で、地下鉄入り口の屋根にはその有様を撮ろうと報道のカメラが陣取って鈴なりです。歩道のあまりの混雑に、4丁目の角のウインドウが人々の圧力で割れると危険だからと、新兵のわれわれは上司の命令でウインドウのガラスを中から押さえていなければなりませんでした。
バーやキャバレーで大騒ぎする面々もいますが、多くは当時いたるところにあった喫茶店で500円(今の感覚でいえば5,000円くらいでしょうか)の目の玉の飛び出るような値段のコーヒーとケーキのセットメニュをオーダーし、あとはジングルベルを口ずさみながらひたすら憑かれたように練り歩いてから家路につくのですが、ケーキが家族に届くころにはよれよれになっていたに違いありません。
昨今の家族中心の落着いたクリスマスから考えるとそれはまさに狂態としかいいようのない、それ以後始まる空前の消費社会の予兆のような出来事でした。

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そんな体験をしたジイジ&バアバはクリスマスというと、商業主義にスポイルされる困ったイメージと、ビング・クロスビー主演の映画「ホワイトクリスマス」の甘いイメージがない交ぜになっていて、ワケもなくウキウキしてしまう一方、あんあまり騒ぎたくないなぁと引いてしまう気分が同居しています。
で、結局今年もクリスマスといってあまり特別なことはしないのですが、新潟時代にバアバがつくって長年わが家に住みついているサンタさんに店頭に出てもらい、いくつかの手づくりのプレゼント・アイテムを用意して、いつものHAND & SOULにちょっとしたクリスマス・タッチの味付けをしました。

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写真:
① 海岸で拾った流木と貝殻のリース(直径25cm) ¥4,000 ② PUSH MAN ブックエンド 1組 ¥4,000 
③ ターキーのウイッシュボーンの額 (13cm×23cm) ¥6,000 ④ 樫の木移しパズル(26cm×10cm×h13cm) ¥5,000
⑤ 卓上エンジェル・スタンド(高さ30cm) ¥6,000 ⑥ウォールデンの森の家の香炉(12cm×9cm×h12cm) ¥4,000 
⑦ バアバの手づくりクリスマス・オーナメント1個 ¥300から ⑧”LOVE & PEACE” STONE BOX(直径9cm) ¥1,500

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by love-all-life | 2011-12-04 01:08 | 「モノ」がたり | Comments(0)