HAND & SOUL

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悪魔を呼ぶオリーブの木

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朝、庭に出たバアバが「これ何かしらね?」と言うのでこちらも庭におりて見たら地面に小豆より少し小ぶりの黒い粒があちこちに落ちています。「こりゃ毛虫の糞じゃないか?」と見上げてもオリーブの小木があるだけです。
この鉢植えのオリーブは、知人が引っ越すとき「持って行く先がないからおいていくわ」とわが家へやってきたものです。ケアの仕方もわからないまま適当に水やりをするだけなので、先方もふてくされているのか花をつけることもなく、したがって実もつけることもなく、うちに来てからゆうに10年は経ちます。こちらの不注意もあるのでしょうが、いままで虫などがたかっているのを見たことがありません。
一応と思ってオリーブの枝を仔細に調べてみると、「ややッ」特大の芋虫が枝にしがみついています。6、7センチもあるでしょうか細い枝先がたわむほどの大きさがあり、美しくもあり醜くもある鮮やか柄を纏っています。
6匹ほど見つけたのを金ばさみで摘んでどこかへ放り投げようとして、「ん、待てよ」と、3匹を残して植木鉢にオリーブの枝とともに入れ、ブログに出演してもらうことにしました。

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さて、なんという名の虫か? 何の幼虫か? ネットで調べて、イボタガという蛾の幼虫であることが判明しました。
幼虫はイボタノキ,モクセイ,トネリコ,ネズミモチ,ヒイラギ,ヤナギなどの葉を食べると書いてありますが、わが家ではオリーブの木に取り付いていました。イタ飯好みの変わり者たちなのかもしれません。

たどり着いた成虫の画面に思わずギョッとしました。
羽根の模様が目を見開いたフクロウの擬態になっていて、大きく見開いた目には強い輪郭や陰翳までついていて、迫力ある形相は歌舞伎の悪役の隈取りよろしく見るものを威嚇します。自らの姿を決して見ることもないのに、どのようにしてこんな悪のイメージを描き出すことが可能なのか、自然が時折見せる悪魔の成せる技としか言いようがありません。
英語名もOwl Moth (フクロウガ)。

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今日採取した幼虫は既に終令幼虫期で、まもなく土中に潜って蛹となり、翌春に成虫となって現れるとのことです。
そんなわけで、植木鉢に土を入れオリーブの枝とともに幼虫を入れ金網を被せて観察してみることにしました。
この連中がうまく育ってくれればという気持と、来春になって強面のフクロウが出現する怖さとが半々の、にわかファーブルとなったわけです。

それにしてもわが家の貧弱なオリーブの木にかくも豊かに命を育む力や、悪魔を呼び寄せる魅力が潜んでいたとは、少し見直してやりました。


成虫写真:イボタガ Brahmaea japonica Butler, 1873より
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by love-all-life | 2012-05-29 00:49 | 自然 | Comments(2)

HAND & SOUL「モノ」がたり 91 <流木のヒトデ、再び。>

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難しい生命科学の話をやさしく説いてくれる生物学者・福岡伸一さんはその著書「生物と無生物のあいだ」で、海岸でふと拾った小石と貝殻の違いをこのように述べます。
「小石も貝殻も、原子が集合して作り出された自然の造形だ。どちらも美しい。けれども小さな貝殻が放っている硬質な光には、小石には存在しない美の形式がある。それは秩序がもたらす美であり、動的なものだけが発することができる美である」。続いて、「動的な秩序。おそらくこ、ここに、生命を定義しうるひとつの基準(クライテリア)がある」として、生命の神秘というワンダーランドにわれわれうを誘っていきます。



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さて、ジイジが流木をいじりながら、これでヒトデを作ってみようかなと思いついたのも、どちらにも共通する「動的な秩序」を感じたからなのかも知れません。

流木を手に取ってしばらく眺めていると、それが命のかたちの痕跡であることに気づきます。なだらかな曲線、節やこぶ、木口に見える年輪、蔓がからんでつくられた螺旋状のねじれ、虫食いの跡・・・これらの流木の表情は、樹木の生長という時間の流れが組立てた秩序の証です。ただしその秩序は定規やコンパスでつくった堅苦しい規則性ではなく、一見融通無碍で自由奔放とも思える姿を纏った秩序です。この「柔らかな規則性」こそ自然のフォルムの特性であり、同じく自然のフォルムとして存在する「人」の心が郷愁のようななつかしさを感じてしまう所以なのでしょう。
流木はさらにその表面のマチエールや色彩もまた太陽や風や温度といった自然現象によって仕上げを施されて、樹木としての寿命を終えてはいてもオブジェとして新たな生命を得たかのようです。それは貝殻がすでに生き物ではなくなっても、その美しいフォルムとパターンによって命の輝きを失わないのと似ています。

命を失ったカタチに、オブジェとしての命を与える・・・こんな遊びに戯れています。

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by love-all-life | 2012-05-23 10:16 | 「モノ」がたり | Comments(1)

日食鑑賞、どれほど怖い?

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太陽が月に隠れてリングに見える、900年ぶりとされる金環日食がいよいよ明日に近づきました。今回は日本の広い各地で観測可能とのことで、いつになく事前の情報が頻繁に報道されています。今回を逃すと次は300年後になるとかで、となると現存する日本人にとってはこれが最後の日食ですよと宣告されているわけで、見逃がすわけにはいかないという気にさせられます。
そんな日食関連情報のなかで目立つのが目を痛めない鑑賞の仕方についての注意です。なんでも専用の鑑賞グラスを使用しないといけないのだそうで、文部科学大臣自身がお手本を示して直に国民に呼びかけるわ、テレビも一斉にニュース番組で装着の仕方まで丁寧にデモンストレーションしてみせるわで、これらを守らないと視覚障害の原因になると注意を呼びかけ、ガリレオも発症したといわれる「日食網膜症」なる聞き慣れない言葉までとび出します。消費者庁も市販のグラスで不良なものがあると銘柄名まで挙げて注意を喚起したり国民を怖がらせてくれます。
これらの一連の報道は、より安全な観察を奨励するという意味では結構なことに違いはありませんが、いささか度が過ぎているような気がしないでもありません。

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かって子供の頃ガラスの破片をロウソクのばい煙で黒くして日食観察した記憶のあるジイジにしてみれば、ここまで脅されると、近頃の視力の衰えもあの頃に遠因があるのかと疑りたくもなりますが、思い起こしてみると日食翌日の朝刊は子供たちがそろってばい煙ガラスを空に向けて日食観察してる報道写真を掲げたりしたもので、いまになってみればいてって牧歌的でした。

安全な日食鑑賞をという報道はいいことと分かっいながらもちょっとイチャモンをつけるのも、この国にとくに「フクシマ」以降、どうも安全教とでもいうような新興宗教がはびこっているような気がするからなのです。
なんでも安全ならいい、安全より大切なものはないという物言いが大手を振っていて、安全の欠如に対してはいくら厳しく断罪されて当然という風潮があります。
なにも放射能が怖くないとか、不安全がいいと言っているのではありません。ただ国民や消費者や子供の安全は保護されるのが当然で、安全が脅かされるのは、脅かす方が悪く、そのリスクの責任は誰かがとるべきだという主張はどこか危うさを感じます。危うさというのは、いざ危険に遭遇した場合に自ら守る術も知恵も欠如した安全バカになってしまわないかという心配。またどんなに守っても危険のリスクは0になるということはないので、安全のためには常に膨大なコストを誰かが負担しなければならなくなるという点です。

小学生の孫に鉛筆の削り方を伝授しようとしたら、先生からナイフは危険だから鉛筆は鉛筆削り器で削るように言われているとのことです。
近頃プラットフォームのホームドアなるものの設置が奨励されあちこちの駅に実現しつつありますが、駅単位で億から10億円単位の費用がかかるそうです。設置の理由のひとつに、近頃はスマホを見ながらホームを歩くと線路に落る危険あるからだと聞きますが、まともに公共の場を歩くこともできない人間のためになんでと思いますが、ひとたび事故が起きると、世間が、マスコミが、落ちた人の責任ではなく鉄道会社を糾弾するからでしょう。
子供の鉛筆削りから原発まで、世の中いまや安全を巡ってリスク回避と責任追求の追っかけっこゲーム花盛りですが、悪いのは国であり、企業であり、自分ではなく他人だとする風潮は、結果的に自分で自分の身を守る知恵も予知能力もない無能な人間を生み出してしまわないか。安全のために人類が進歩させてきた方法論や技術が、人を能力的に原始人からどんどん退化の道を歩ませるという皮肉を生み出しているような気がしてなりません。
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by love-all-life | 2012-05-19 23:37 | 時事・社会 | Comments(0)

コンピュータ vs 人間

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5月11日付の朝日新聞に掲載された、永世棋聖・米長邦雄さんの「最善手を指したから敗れた」という記事はとても面白く読みました。
米長さんが1月に最強とされたコンピュータ将棋ソフトと対戦して敗れた経緯と彼の反省を綴った記事です。

将棋というものは、一つひとつの局面で「これしかない」という最善の手を見つける、いわば「盤上の真実」を追求する営みであると子供のころからずーっと思ってきた米長さんですが、最善手をぶつけ合ったら勝てない相手が現れた。それがコンピュータだということを思い知ったのです。人間がスポーツカーと競争するようなものだと彼は言います。
敗戦後3日間は、勝敗の分け目となった局面を思い返して眠れなかったそうです。
コンピュータは、過去の何万局ものデータを蓄え、1秒に最大1800万手を読みます。米長さん自身が忘れてしまった棋譜さえ知っていて、「米長さんはこういうとき、こう考えるでしょ?」とこちらの手を見抜いているかのようなのです。
そこで米長さんは対策を考えます。その対策とは「最善の手はとらない」ということです。通常ならあり得ない手をわざととり続けます。するとコンピュータは「米長さんの陣形は変な恰好だな」と混乱して乱れてきます。ところが我慢に我慢を重ねていた米長さんはついにイライラしてきて、「ここいらで決着をつけるぞ」と最善の手を指してしまいます。それが痛恨の一手、「スポーツカーと競争しちゃったわけです」と悔しがります。

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人間がコンピュータをもっと研究すれば、人間が完全に負けるのはまだ先だろうが、コンピュータが棋士を抜きさってしまうことがあるとすれば、棋士のデータを参考にしなくなったときだろうと米長さんさんはみています。
しかし棋士が脳から汗をかくように苦悩しながら勝負に挑む姿が感動を呼ぶのであって、そんな人間の姿を美しいと思ってくれる世の中であり続けて欲しいというのが米長さんの願いです。

この話をジイジから聞いたバアバが「つまりはテニスでどんな上級者も、初心者のフレームショットは受けられないということよね」と言いました。
米長さんを初心者に例えるのは失礼というものですが、人間が産み出したコンピュータが人間を打ち負かす、このSFの世界が現実になろうとしているのを、人間のなかでも最上質の頭脳をもった人の口からきくのはどこかつらい気がします。しかし米長さんも記事で結んでいるように、人がスポーツや種々の勝負に熱くなるのは、たんに勝つ負けるの結果だけではなくて、そこに至る過程で展開される心のドラマに興奮したり感動したりできるからでしょう。この精神性こそ人間の聖域としていつまでも誇りにしたいものです。


写真(下):将棋ソフトと対局する米長邦雄元名人。樫山晃生氏撮影
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by love-all-life | 2012-05-14 09:11 | 時事・社会 | Comments(0)

カラスはどれほど可愛いか 3

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1年ほど前「カラスはどれほど可愛いか」というタイトルで2度ほどブログを書いて、近くに生息する夫婦(と思います)のカラスの観察日誌のようなものをやってみようと思い立ちました。それは四六時中うちの界隈を徘徊している彼らを不愉快なヤツと決めつけないで、同郷の友として彼らの美点を探ってみよう、できれば仲良くできないだろうかと考えたからでした。
ところが彼らとのコンタクトの手始めに餌付けをしようと思っていた矢先、同居の長男の嫁のTが食事の余ったパンなどを与え始めたのです。それでこちらの餌付けは機先を制せられてしまい、観察といってもTが食べ残しを与えるのを横目、すがめで眺める感じになって、そうなるととどうしても彼らの美点より欠点のほうが目につくということになってしまい、「カラスはどれほど可愛いか」のネタになるような発見がなくて1年経ってしまいました。


さて、この季節になると、気持よく晴れた日には庭で朝食をとることがよくあります。キッチンで用意した食事をお盆で庭のテーブルに運ぶのですが、気をつけていないとテーブルを離れた瞬間にカラスに食物をさらっていかれるのです。いつも誰かはテーブルにいるか、新聞紙などを被せておくようにこちらも注意する習慣が身に付いています。
しかし今朝はうかつでした。食事を終えて食べ終わったものを下げて家に入って10分ほどして再び庭に出てみたら、辺り一面に白い紙片が散らばっています。カラスが片付け忘れたティシュボックスからティシュを一枚一枚取り出してはまき散らしたのです。

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以前にも何回か同じことをされています。最初はカラスが食べ物と間違えて中味を食べようとしてティシュを摘みだしたのだと思いました。なんだカラスが賢いといってもやはりその程度の知恵しか持ち合わせていないのかと思ったものでした。
しかしこれが何回もくり返されるとなると話が違ってきます。彼らはティシュボックスのなかが何かすでに知っているはずです。では何故?  面白がっての遊び心からか、悪意のあるイタズラかどちらかでしょう。どうも後者のように思えます。
エサはくれないのに自分たちだけこれ見よがしに庭先で食事をとるイマイマしい老夫婦への仕返しに違いありません。
そうか相手がその気ならこちらの意識も変えざるを得ない。もう「カラスはどれほど可愛いか」などというタイトルは返上して「カラスはどれほど悪賢いか」にしようか。いやそんなにムキになったら自らをカラスのレベルに身を貶めることになってしまうと反省するなど、心が揺れる一日になりました。
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by love-all-life | 2012-05-09 11:20 | カラス | Comments(0)

HAND & SOUL「モノ」がたり 90 <カマタさんの表札>

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Fさんはカメラショップに勤めながら自らもフォトグラファーとしてお仲間と作品発表したり、おシャレなショップや展覧会や映画のハントが上手で、旅行好きでお料理好きの湘南レディです。
彼女がHAND & SOULに来てくれるのはごくたまになのですが、それでもこれだけのことを知っているのは暮らしのスナップ写真で綴られた彼女のブログを通じてなのです。Fさんの興味の対象や、たくさんのお仲間の屈託ない笑顔や、誇らしげにテーブル狭しと並べられた色とりどりのお料理などから、青春真っただ中の暮らしぶりが窺えます。
それはジイジ・バアバがはるか昔に通り過ぎてきた日々の思い出写真を見るようでもあって、誰かが言った「若いときの一日の終わりは、それだけ私が生命の出発点から遠くまで歩いてきたということを意味していた。しかし、今は同じことが終点への接近を意味する。」という言葉がつい思い出れ、さちょっぴりしんみりしたりします。

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そんなFさんがブログにしばしば登場する男性を伴って久しぶりにHAND & SOULに現れました。そして「表札をつくってください。」と言うのです。!。少し前にお二人が結婚式されたのをブログで知っていたジイジは、二人を祝福して、新生活の幸せの象徴のような表札を依頼されるとは誠に嬉しいと礼を言い依頼を快諾しました。
それでどんな表札がいいの?と聞くと、おまかせしますが、アルファベットで「カマタ」と入れて欲しいと言うではありませんか。「カマダでなくカマタですね?」と念を押しました。
ジイジの名字である「鎌田」をうちのようにカマダと読む場合とカマタと読む家があることを、短くない人生で何度か経験してきました。実はカマダに嫁に来た長男の連れ合いは、いつまでたっても「カマタです」って言うのです。ジイジがムっとして、「うちはカマダだ。」と諌めると、「カマダってハマダと間違われるので・・」などとトンチンカンな言い訳をします。そんな横で電話でバアバが「はい、カマタでございます。」なんて言うのですから示しがつきません。孫たちはちゃんと「カマダ」と言います。それを考えると嫁さん達には「この家は私流にしきるのよ」という下心でもあるのではないかとの気がしてきます。「カマダ」は風前の灯火なのです。
それに比べてFさんはスタートの時点で自分の新しい名字が正しく名乗れるのはご同慶の至りです(あたりまえのことですが)。というより最初が肝心ということを知っているご亭主のしきりがよいのでしょう。つまりはジイジがだらしなかったということになる訳か、トホホ・・。

快諾したわりには時間がかかり、遅れに遅れてできあがったのが上の写真の表札です。おめでとうございます、カマタさん。
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by love-all-life | 2012-05-03 15:25 | 「モノ」がたり | Comments(3)