HAND & SOUL

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鎌倉佐助のさんぽ市

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HAND & SOULのある佐助地区はジイジ・バアバが50年近く前に住みついた頃は鎌倉特有の低く入り組んで連なる山裾の奥(谷戸といいますが)に、まだ畑地や田んぼがあり、大きなお屋敷が点在し、谷戸の奥に佐助稲荷と銭洗弁天がひっそりと佇む、隠れ里といった趣の閑静な場所でした。いまも佐助に入るにはトンネルを抜けなければならないことがそのことを現しています。

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時が流れ人家が増え、町名も扇が谷から佐助と改められ、道路が舗装され、お屋敷が取り壊されて次々に分譲され、ニューファミリーが移り住むようになって、いくつかのお店もできました。

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佐助という町名は言うまでもなく佐助稲荷からきたのですが、その謂れは、源頼朝が幼少のころ佐(すけ)殿と呼ばれていて、伊豆に島流しされていたとき、枕元に「かくれ里の稲荷」と名乗る白ひげの老人が現れて、いま兵を挙げれば成功間違いなしとのお告げに従って攻め入ったおかげで鎌倉に幕府を開くことができたことから、「かくれ里」なるところを探したら西に小さな祠(ほこら)を見つけ、その場所にお宮を建て「佐助稲荷」名付たというのが佐助稲荷の縁起として記されています。佐殿(すけどの)を助けたので「佐助」というわけで、佐助は鎌倉の起源にゆかりの深い地なのです。

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その佐助も人口が増え、高齢者から若い家族やその子供たちと多様な人々が住むようになったことから、お互いの絆を深め、地域で子供たちを見守ったり、年々増えてきた観光客に対しても魅力的な佐助にしていこうと、小さな地域起こしが始まりました。
いずれも小粒ながら20店舗ほどの佐助のお店が連携して、「鎌倉佐助のさんぽ市」という夏のイベントが二年前から試みられています。
そして三回目の今年からHAND & SOULも参加することになりました。

今年の「さんぽ市」は具体的には、この8月3、4、5の三日間、それぞれのお店にフラッグを掲げ、店の特性に合わせたオリジナルな企画やメニュを用意します。たとえば、紅茶の専門店ではアイスティの入れ方のワークショップをしたり、うなぎやさんではドジョウのつかみ取りをしたり、人力車が特別料金で乗れたりといった具合に、思い思いのアイディアでイベントを工夫して、近隣のお客さんや訪れる観光客にぶらぶら歩きで地域を巡ってもらい、駅周辺の観光客相手の賑わいとはひと味違った、手づくりのサービスで楽しんでもらい、日頃の感謝の気持を表そうおうというものです。


e0153357_1236224.jpgさて、初参加のHAND & SOULとしては、来店者に自分でなにかつくってもらうワークショップ形式の企画にしたかったのですが、あまりにも店が手狭なので、結局手づくりアクセサリーのキットを販売することにしました。
竹、松ぼっくり、枝やサンゴや貝殻などの自然素材を利用して、誰でも比較的簡単につくれるネックレスやブローチなどのアクセサリーのキットです。完成見本を展示し、材料と作り方の説明書のセットを何種類か用意してお客さんに選んでもらいます。
「誰でもが簡単につくれて、どこにもない、オシャレなモノ」と一口に言うのは簡単ですが、いざ準備し出すと、これがなかなか簡単にはいきません。
既に日程も迫っていますが、まだ「簡単にしようとすれば難しい」という難問に四苦八苦しながらの試行錯誤中です。

ま、とりあえずこんな感じです。
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by love-all-life | 2012-07-20 15:31 | カマクラある記 | Comments(2)

鎌倉佐助のさんぽ市


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HAND & SOULのある佐助地区はジイジ・バアバが50年近く前に住みついた頃は鎌倉特有の低く入り組んで連なる山裾の奥(谷戸といいますが)に、まだ畑地や田んぼがあり、大きなお屋敷が点在し、谷戸の奥に佐助稲荷と銭洗弁天がひっそりと佇む、隠れ里といった趣の閑静な場所でした。どこから来るにせよいまも佐助に入るにはトンネルを抜けなければならないことがそのことを現しています。

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時が流れ人家が増え、町名も扇が谷から佐助と改められ、道路が舗装され、お屋敷が取り壊されて次々に分譲され、ニューファミリーが移り住むようになって、いくつかのお店もできました。

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佐助という町名は言うまでもなく佐助稲荷からきたのですが、その謂れは、源頼朝が幼少のころ佐(すけ)殿と呼ばれていて、伊豆に島流しされていたとき、枕元に「かくれ里の稲荷」と名乗る白ひげの老人が現れて、いま兵を挙げれば成功間違いなしとのお告げに従って攻め入ったおかげで鎌倉に幕府を開くことができたことから、「かくれ里」なるところを探したら西に小さな祠(ほこら)を見つけ、その場所にお宮を建て「佐助稲荷」名付たというのが佐助稲荷の縁起として記されています。佐殿(すけどの)を助けたので「佐助」」なのです。
というわけで佐助は鎌倉の起源になかなか縁起の深い地なのです。

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その佐助も人口が増え、高齢者から若い家族やその子供たちと多様な人々が住むようになったことから、お互いの絆を深め、地域で子供たちを見守ったり、年々増えてきた観光客に対しても魅力的な佐助にしていこうと、小さな地域起こしが始まりました。
いずれも小粒ながら20店舗ほどの佐助のお店が連携して、「鎌倉佐助のさんぽ市」という夏のイベントが二年前から試みられています。
そして三回目の今年からHAND & SOULも参加することになりました。

「さんぽ市」は具体的には、この8月3、4、5の三日間、それぞれのお店にフラッグを掲げ、店の特性に合わせたオリジナルな企画やメニュを用意します。
たとえば、紅茶の専門店ではアイスティの入れ方のワークショップをしたり、うなぎやさんではドジョウのつかみ取りをしたり、人力車が特別料金で乗れたりといった具合に、思い思いのアイディアでイベントを工夫して、近隣のお客さんや訪れる観光客にぶらぶら歩きで地域を巡ってもらい、駅周辺の観光客相手の賑わいとはひと味違った、手づくりのサービスで楽しんでもらい、日頃の感謝の気持を表そうおうというものです。


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さて、初参加のHAND & SOULとしては、来店者に自分でなにかつくってもらうワークショップ形式の企画にしたかったのですが、あまりにも店が手狭なので、結局手づくりアクセサリーのキットを販売することにしました。
竹、松ぼっくり、枝やサンゴや貝殻などの自然素材を利用して、誰でも比較的簡単につくれるネックレスやブローチなどのアクセサリーのキットです。完成サンプルと作り方の説明書と材料のセットを何種類か用意しお客さんに選んでもらいます。
「誰でもが簡単につくれて、どこにもない、オシャレなモノ」と一口に言うのは簡単ですが、いざ準備し出すと、これがなかなか簡単にはいきません。
既に日程も迫っていますが、まだ「簡単にしようとすれば難しい」という難問に四苦八苦しながらの試行錯誤中です。

ま、とりあえずこんな感じです。
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by love-all-life | 2012-07-20 15:31 | カマクラある記 | Comments(0)

絵葉書にみる子供

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前回に続いて「絵葉書で見る鎌倉百景」に因んだ話題です。
絵葉書で鎌倉を懐古するということになると、主な対象は名所旧跡や街の佇まいや建造物ということになりますが、同時に写真に捉えられている時々の風俗や人々の暮らしぶりを垣間みることにもなります。なかでも今回興味をそそられたのは随所に登場する子供たちの姿です。

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[左]は、「鎌倉七里が濱」大正〜昭和初の写真ですが、子供たちは天秤を担いだり、背負子を担いだり子守をしていて、無邪気に遊ぶ子供ではありません。みんな役割を与えられて大人の仕事の分担を引き受けています。
このように演出して撮られた写真のようにも見えますが、子供を点景にした海岸の写真ということなら昨今ならさしずめ岸辺で無邪気に波と戯れる子供といった光景になりそうです。ところが上のような写真にしたのは、カメラマンがこのような情景が七里が浜を代表するにふさわしい絵柄と考えたからに違いありません。
当方の手許にある「百年前の日本」(セイラム・ピーボディ博物館所蔵のモース・コレクション/写真編)をみても、年齢差なく遊び集った子供たちの多くは赤ん坊を背負ったり幼い子の世話をしていたり、また農作業を手伝ったり、親の労働力の助っ人としての子供たちが数多く写っています。
親から勉強を強いられ、すきあらばゲームに夢中になるといった現代っ子と大きく異なった子供の姿がみられます。
[右]は、「材木座海岸の水泳」【神奈川師範学校】昭和(戦前)です。「さすが将来の先生方、褌姿も凛々しく手足がピンと伸びて揃っています」と解説がついています。
この写真をみてまず感じたのは「太った子がいない」でした。そして気持の張りが姿勢に出ている「凛々しさ」です。
思わず以前のブログで取上げた「忘れ得ぬ写真」(2010年3月25日)の、長崎の原爆の焼跡にたたずむ少年の姿を思い出しましてしまいました。
近頃、お祭りで神輿が練り歩く映像などをみても、本来なら担ぎ手はねじり鉢巻で片肌脱いだイナセはお兄ちゃんであって欲しいところですが、なにやら色白でプヨプヨ小太りの若者が多くてどこか気勢があがりません。
日向の校庭で長時間立っていられない生徒や、朝礼を講堂で座って受ける子供たちのことを見聞きすると、どうしてこんなことになってしまったんだろうという思いが拭い去れません。

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[左]は「鎌倉御用邸」です。明治32年に現在の御成町に建てられ、大正12年の関東大震災で被害を受け、昭和6年に鎌倉市に払い下げられました。
[右]は現在の写真で(絵葉書ではありません)、その敷地に昭和8年に鎌倉郡立御成尋常小学校が建てられ、いま孫たちがお世話になっている御成小学校に引き継がれました。正門は御用邸の面影をそのまま残しています。門に架けられている校名は高浜虚子の筆によるものです。
鎌倉駅から卑近の広大な敷地の跡地利用ということになれば、当今なら巨大資本が入って再開発の大型プロジェクトが進みショッピンモールか高級マンションに変ってしまうところでしょうが、小学校(その後、中学校もでき、いまは市役所になっています)を建てるという、将来を担う子供たちへ投資すると決定した当時の行政の見識を感じざるを得ません。

これらの写真をみて感じるのは、子供と社会の関わりの変遷です。
写真からは「早くから社会の一員である自覚を促し」「鍛え」「社会が子供に投資をする」という世の中の姿勢が窺えます。そうして育った子供たちが、日本を世界の一流国(一応)に築き上げたのです。(無謀な戦争もしましたが・・・)
現在はどうでしょうか。子供たちに「できるだけ楽をさせ」「保護し」、思うようにならないと「教育制度が悪い」と嘆いて、責任を誰かに転嫁して自らを省みない親たちの精神構造は、いまの楽な生活が維持できないからと消費税増税に反対し、子や孫に1千兆円の借金のつけを廻そうとする愚考と同根です。


カット写真:モース・コレクションから
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by love-all-life | 2012-07-11 15:45 | カマクラある記 | Comments(0)

絵葉書で見る鎌倉百景

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図書館で用事を済ませて、カウンターの上に「絵葉書で見る鎌倉百景」という本が置いてあるのに気づきました。手にとってみると、明治から昭和初期にかけての古い鎌倉を写した絵葉書集で、図書館と館員の所蔵資料を掲載したとあり、鎌倉市図書館の開館百周年記念で出版されたものです。
ときどき書物や街の随所で古い鎌倉の写真を目にすることはありますが、これだけまとまったものをみるのは初めてなので購入して帰り、家でページを繰っていていろいろな興味深い発見や感慨がありました。

「絵葉書で見る・・」がなかなかのアイディアだなと思いましたが、いまのように誰でもがメモするように(しかもタダで)写真を入手できない時代には、観光土産として絵葉書が重宝がられたでしょうし、情報伝達のメディアとしての役割も果たしていたのでしょう。古い写真を探し集めたら結果的に絵葉書集になってしまったということかもしれません。

さて、写真の内容をみると日頃なじみの場所が「えッ、昔はこんなだったのか」という驚きや、「あッ、確かにこんなだった」と懐かしむ楽しみがある一方で、「それほど変ってないね」という感慨もあります。たとえば東京の100年前の写真と現状を比べたときの様変わりが感じられるということはありません。もちろん絵葉書なので被写体の多くが神社仏閣だったりランドマーク的景観ということもありますが、言いかえればそれだけタイムレスなアイテムが多いということですし、古都鎌倉といわれる所以でもあるわけです。
ところで鎌倉市はいまあげて世界遺産登録に躍起になっているわけですが、正直、この写真集に写った鎌倉なら文句なく世界遺産登録の賛成に一票投じます。


鎌倉住まいの当方が騒ぐほどみなさんには興味がないであろうことは承知の上で、掲載写真をいくつかご紹介しましょう。
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[左]は、タイトルは「鶴岡八幡宮の櫻」です。参道の段葛が大正6年に整備の許可がおりたとのことですから、この風景は大正期以降のものですが、バスや乗用車がひしめき合ういまの賑わいに比してどこかのんびりした感じです。
[右]は、「七里ケ濱」で明治末から大正初の写真です。江ノ島を遠望し、江の電の線路が通っているところはいまも同じですが、荷馬車を引いている道のすぐ下に現在は国道134号線が通り、環境が一変しました。
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[左]は「鎌倉長谷町ヨリ觀音ヲ望ム」で長谷寺山門に至る道です。近頃人出が増えた長谷の商業区域ですが、このあたりは大仏も近く昔から賑わっていらしいです。賑わいといってもこのような佇まいなら許せる感じ。明治末期から大正初の写真です。
[右]は「KAIHIN-HOTEL, KAMAKURA. JAPAN」。由比ケ浜にあった外人向けリゾートホテルで、大正2年の消印があるカリフォルニア宛に投函された絵葉書です。この広々とした松林はもちろんいまはなく、ずーっと時代が下ってこの跡地にできたテニスコートでは20年ほどお世話になりました。

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この写真集には、大正12年の関東大震災の惨状を写した絵葉書が含まれています。[左]は、ペチャンコになった八幡様の正面の舞殿と楼門が見えます。[中央]は、石の台座が壊れ、30センチほど前へずれた大仏さんです。[右]は、由比ケ浜を襲ったツナミの被害状況です。中央の洋館と思しき建物の円形の部屋かベランダの残骸を留めるのみです。このような災害の記録が絵葉書として流通していたことにとても興味を覚えます。
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by love-all-life | 2012-07-05 20:53 | カマクラある記 | Comments(1)