HAND & SOUL

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HAND & SOUL「モノ」がたり 107  <額縁は友だち>


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いろんなモノを額縁にいれてきました。古くは額縁の中味は学生時代に描いた油絵でしたが、社会人になって絵を描かなくなってからは、額の中味は海外旅行などで拾った葉っぱとか劇場の切符のとかレストランのメニュやコースターなどをコラージュして額に納め部屋に飾る楽しみを覚えました。


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25年くらい前でしょうか、バリ島のウブド村でお土産にちょっと大きめの絵を買って、キャンバスをくるくる巻いて持って帰ったのはいいのですが、その絵を入れる額を買うとなると買った絵よりはるかに高い出費になることがわかり、ではと頑張って自分で作りました(上)。
以来、人に頼まれたり、自分の作品を入れたりする額をつくるようになりました。職人さんのつくった精度の高い凝った豪華なものではなく、手近にある材料でつくる簡素なものですが、そうなって、ふと、人は何故絵などを額に入れるのだろうかを考えることがあります。

額縁の発祥はその原型はギリシャ・ローマだという説もありますが、やはり一般化するようになったのはルネッサンス以降ではないかと思います。それ以前の絵が聖書の教えを説くものから次第に鑑賞するものに変っていき、それにつれて描かれるスペースも壁画の大画面から小型化して、絵画は所有物として家のなかに飾られるものになり、鑑賞のために絵を周りの世界から切り離し、また絵そのものを際立たせるものとして額縁が生まれたのではないかと考えられます。

しかし近頃の暮らしをみると、名のある画家の絵を麗々しく飾るというようなことより、自分の気に入った額をインテリアの小道具として飾る、または自分の感性の遊びとして楽しむ対象となってきているようにみえます。例えば、雑誌に掲載されていて気に入った写真やイラストを切り取って額にするとか、赤ちゃんの初めての靴下を思い出として額に入れるといったように額のカタチも多様化しています。
だとすると、絵が主役、額縁は脇役という上下の関係でなく、額の中味も枠も一緒にして作品というお友達関係の額縁があってもいいのではないかと思うのです。

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このところ、写真館が写真を楽しむ自由な発想の額縁を提案して欲しいという依頼や、エドワード・ホッパーのカレンダーの一葉を額装して欲しいという注文があったりして、いくつかの額をつくりました。

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これは、太い枠木に傾斜をつけてあるので、縦にも横にもそのまま立てて使える置き額です。手前に
奥行きがあるので、思い出の品やちょっとした小物を置くという楽しみもあります。

「なにも額にしなくったっていいじないか」という考え方もあるでしょうが、枠組みがあるとなんとなく気が落着くというのは人間普遍の心理ですかね。
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by love-all-life | 2013-07-21 16:24 | 「モノ」がたり | Comments(0)

鎖をきるのは、いつ、誰が?



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国際社会で活躍出来る人材の不足が嘆かれて久しいですが、かけ声や議論だけがだらだらと続いていて、海外への留学生数は他のアジア諸国に比べて相対的にどんどん低下する一方で、凋落日本の姿をそのまま現しているかのようです。
そんな現状に業を煮やしたのか、少子化で困った私立校や予備校の窮余の戦略なのか、予備校大手の河合塾が都内の私立高校と提携して、米ハーバードや英オックスフォードといった海外の名門大学進学を目指す中高一貫校を設立する計画が報じられました。一つの石が転がったの感はあります。

かって森首相の英語力を揶揄するジョークがマスコミで話題になったことがありました。
クリントン大統領との日米首脳会議に際し、首相の英語を心配した側近が、とにかく”How are you?”と“Me, too.”とだけ言うようにアドバイスをしたところ、いざ会うや”Who are you?と言ってしまい、大統領が苦笑しながら、ユーモアと思い”I’m Hillary’s husband.”と答えると、森首相はなんと” Me, too.”と応じた、というものです。
このジョークはねつ造だったことが明らかになっていますが、自らの英語力の劣等感を茶化すのに、自国の首相をバカにして溜飲を下げるとは、日本人の英語にたいする心理にはどこか屈折したものがあります。
尊王攘夷の江戸末期から引きずっている根強い劣等感と、欧米なにするものぞという空威張り的な優越感の間でゆれる気持です。

幕末から明治にかけて、英語を身につけるには今とは比べようもないほどの劣悪な学習環境のなかで、一部の開明的な若者たちの血のにじむような努力があって、日本は近代国家としてスタートを切ったのでした。
太平洋戦争の敗戦で、優越感のかけらも失い、劣等感を劣等感と意識することさえ忘れ、ひたすらフルブライトの奨学制度にしがみついて猛勉強した時代を経てやっと手に入れたのが高度経済成長でした。しかし世界第二の経済大国になるや、日本は原語で勉強しなくても日本語で書かれた書物で充分最高水準の勉強ができる幸せな国で、植民地にならなかった証拠だなんていう大口をたたくものさえ現れました。国内だけで仕事をしているうちはよかったが、グローバル化の大波が押し寄せてきて、コミュニケーションができないで立ち往生している間に後ろから来た国にどんどん追い抜かれているのを知っていながら国はいつまでたっても有効な手だてを打てないでいます。TPPにしても、外国人雇用にしても、そして英語教育にしても、いまだ鎖国時代の残滓を引きずっているようにさえ感じられます。

言わずと、英語ができれば即国際人になれるわけではありません。「日本語が下手な人も、外国語を身につけられるけれども、その日本語の下手さ加減よりもさらに下手にしか身につかない」という作家の故米原万里さんの言葉もあります。
新設計画中の私立高校が、高度な英語力を身につけるためのたんなる受験校なのか、自国と世界の歴史、文化、アートを論じられるグローバル人材の育成を目指すのか興味のあるところですが、ま、小さな石であれちょぴり動いたというところでしょう。さて、大きな岩を国はどう動かす?
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by love-all-life | 2013-07-15 12:01 | 時事・社会 | Comments(0)

数字を使うか、使われるか

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質問:
心筋梗塞になった人の93%が<それ>を食べています。
ガンになった人の95%が<それ>を食べています。
殺人などの凶悪犯の98%が<それ>を食べています。
さて、<それ>を食べることをどう思いますか?

先日のNHK「クローズアップ現代:数字のカラクリ・データの真実~統計学ブームのヒミツ~」の冒頭は、街頭の人々へのこのような質問から始まります。
答えを求められた人は、「そんなもの食べないほうがいい」「え!何それ?」「そういうものを売ってはいけないんじゃないですか」というようなものでした。
で、質問の答えですが、<それ>とは「ごはん」です。
これは、番組のメインテーマである統計データというもののカラクリを示す一例でした。

今、統計学がブームを巻き起こしているそうです。出版界では入門書が5か月で26万部の大ヒットで、公開講座にはビジネスマンを中心とした受講生が殺到。そして、統計学を使いこなす「データサイエンティスト」なる専門職は「最もセクシーな(魅力的な)職業」だとして、多くの企業から引っ張りだそうです。
玉石混合の山のようなデータのなかから確かな指針を探し出す力。データ分析から知られざる事実を解明し、未来を予測するには統計学のスキルが不可欠なのだというのです。
現代ではビジネスだけでなく、多くの人にとっても統計学的な考え方「統計リテラシー」が必要なようです。

そこでまたジイジの昔話になりますが、外資系の広告会社で広告制作に携わっていたときのことです。ある世界企業のクライエントは徹底して調査データを駆使したマーケティングを行う会社で、ひとつの広告をつくる過程に何回も消費者調査をして、満足な数字が得られなければ何度もやり直しをしなければなりませんでした。
そもそも消費者調査の結果というのは、その日の消費者の意見や好みを反映しているのであって、それは明日の消費者の姿とは限りません。
これから売り出す新製品は、いわば明日の消費者に向けての製品なのだから、昨日の消費者を知ることにどれほどの意味があるのか。明日の消費者を洞察しイメージすること、つまり想像性や創造性が最も必要なのではないかと疑問を抱いたものです。
ま、何十万の従業員とその家族を抱える巨大企業とすれば、いちクリエイターの夢のようなアイディアに会社の命運をかけるより、リスクを最小限にすることのほうがはるかに大切なのでしょう。

番組で取上げている現代の統計学なるものは、扱うデータの量もその分析技術もかってとは比べ物にならないくらい進化しているのでしょうが、ここ何十年もハッとするような広告表現にお目にかかれないところをみると、最先端のデータ分析スキルといえども、未だ創造性の域にまで及んでいない証拠のように思えます。

写真:NHK
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by love-all-life | 2013-07-05 14:30 | 時事・社会 | Comments(0)