HAND & SOUL

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HAND & SOUL「モノ」がたり 110 <巣箱つくりに挑戦>

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HAND & SOULは鎌倉のうねった山並み(といっても標高100メートル足らずですが)のフトコロ(谷戸)にあるので、近隣に結構たくさんの野鳥がいて多様な鳥のさえずりを聞きます。ウグイス、シジュウガラ、ホトトギス、コジュケイ、ヒヨドリ、メジロ、キジバト、それにスズメにうるさいカラスなど。
姿を見かけるのは、頻度の高い順に、カラス、スズメ、トンビ、ヒヨドリ、ツバメ、メジロ、シジュウガラ、キジバト、ハクセキレイ、コゲラなどで、ウグイスは声はよく聞ききますが姿を見ることはまれです。

鳥の姿をもう少しゆっくり観察したいとエサ台を置くと、こちらの意に反して傍若無人のカラスにエサを独り占めにされてしまいますが、スキをみてスズメやヒヨドリやシジュウガラ、それにタイワンリスがおこぼれを漁りに来ます。カラスに横取りされてなるものかとの攻防は以前にブログでも書きました。

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今回は、さらに小鳥と仲良しになれないものかと巣箱つくりに挑戦してみました。
インターネットで調べると、スズメ、シジュウガラ、ムクドリ、ヤマガラなどが巣箱を利用するとあります。10月から冬にかけて巣箱を取り付けると、その間小鳥は自分に気に入った場所を選んで、春になって子づくりに巣箱に入るらしいのです。なので、小鳥が巣箱を利用するのは産卵から巣立ちまでで、巣箱をかければ1年中小鳥と一緒に暮らすことができるというわけではないことも知りました。
ならば、小鳥から見て魅力的で、孵化、子育ての要件を満たしながらも、小鳥が巣立ったあとも庭のエクステリアの小道具として、人の目を楽しませるような巣箱はできないかとつくってみたものです。

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したがって、これらは出来たてなので、小鳥が気に入ってくれて利用したという実績はまだありません。そういう意味では「使ってくれればさらにお楽しみ巣箱」ということなのですが・・・。

小鳥巣箱(木製。屋根には車のナンバープレート、ヤシの葉、板などを使用):1つ¥6,000〜¥10,000
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by love-all-life | 2013-09-28 18:05 | 「モノ」がたり | Comments(0)

明治は遠く・・・


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「日本に貧乏人はいるが、貧困は存在しない。」


アメリカの動物学者で、大森貝塚を発見したエドワード・S・モースのことばです。
彼は明治初頭に東京大学の初代動物学教授として3回に渡って滞日する間、日本の簡素で清潔で活発な庶民の暮らしぶりや、使用する道具の美しさにすっかり惚れ込み、多彩な品々、陶器、写真などを持ち帰りました。
それらはアメリカのピーボディ・エセックス博物館やボストン美術館の日本コレクションの中核をなしていますが、いま江戸東京博物館でそれらのモース・コレクションのなかから、明治時代に庶民が使っていた日用品の展示を中心とした「明治のこころ」が開催されています。

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江戸末期から明治にかけて来日した欧米人の多くが日本の素晴らしさを語っています。そのなかには珍奇な異国情緒を珍しがるだけのものもありますが、多くは、日本が清潔で、自然は美しく、人々は礼儀正しく、活気があり、笑いを絶やず、幸せそうだと観察しました。
そして何よりも彼らが驚嘆したのは、衣・食・住、暮らしのすべてがまことに質素でありながら、日本人が日常使う道具類にどれも最高度の優雅さと繊細があるということでした。
その一例として、英国の旅行家で明治時代に東北から北海道、関西を旅行したイザベラ・バードのことばを引用すると、
「どの台所用具にもそれぞれの美しさと使いやすさがあり、人々はその清潔さと年季の入った古さの両方に誇りを抱いている。(中略)とりわけ鉄やブロンズでできた薬缶の年季の入った風格と職人仕事のみごとさは、デザインにおいて少なくとも奈良の国立収蔵庫のそれに匹敵するし、形の優美さと仕上げのデリケートさという点で、ナポリの博物館のポンペイ人の部屋にある料理道具を凌駕している」。彼女は京都を訪れて、みすぼらしい小店舗に並ぶ品物の美しさに驚嘆した。「形、色、さらに全体的な効果の点でほとんど欠点がないというのは、好事家が求める高価な品々に限ったことではなく、農家のために作られた家庭用品もまたそうであるのだ。・・・・・最高の美術品とお話しにならぬ安物とが手を携えている」。(「逝きし世の面影」渡辺京二著より)このような賛辞は枚挙にいとまがありません。

18世紀後半からの産業革命で長足の進歩を遂げた西洋社会において、人々は効率や便利さを手にする一方で多量に出回る粗悪な工業製品に、どこかおかしいと疑念や不安を感じ始めていたのでしょう。工業化される前に存在し、いつの間にか忘れ去られつつある、誠実なモノづくりや、それを愛おしんで使う喜びを、彼らは明治の日本人の暮らしに再発見したのでしょう。
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なんでこんな些細なものにこれほど手間をかけて美しさにこだわるのだろうか?と考えてみて、そのような疑問は利潤追求を第一とした産業化社会にどっぷり浸かったいびつな発想から生まれるのだと気付きます。一方でつくり手が技と精魂こめてモノをつくり、もう一方にそれを正当に評価し受け入れる使い手がいて成り立つ関係が130年前にはしっかり存在していたのです。
つくる側と使う側がともに美意識や価値観を共有する社会、これほど真っ当なことはないはずなのに、まるで理想郷のように感じられるとはどういうことか。
世界的にも歴史的にも比類をみない豊かさを実現しているのに、アベノミックス音頭とやらに踊らされてさらなる豊かさを求めて右往左往する日本から、明治はさらにさらに遠くなりにけりの感しきりでした。
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by love-all-life | 2013-09-23 14:54 | 文芸・アート | Comments(0)

磔刑のペットボトル



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「美とは存在しているものではなく、それを発見した人の心に生まれるものだ。」とはよく言われることです。
となると芸術家とは、自らのなかに潜む金脈を掘り当てようともがき続けるゴールドハンターであると言えるかもしれません。しかし彼が苦労して掘り出した金塊を、鑑賞者が「なんだ土塊だ」と感じても致し方ないことで、だからと、鑑賞者にとっての金塊にばかりこだわる作家は、もはや芸術家と呼べるかどうか・・・。

「美」が自然に心から生まれるものだとしたら、「美」に接するにはまずは自然体でいることでしょう。「これは有名画家の作品だ」とか「・・億円だから立派な芸術だ」という既製観念から解放されて、自分の気持に正直になることだ、と、自分に言い聞かせはするものの、このことって言うほど簡単なことではなく、禅のお坊さんが解脱するのに座禅を繰返すと同じように、それなりの心がけも必要だとも感じています。
ま、心がけと言っても、当方がすることといえば、庭の落ち葉に目を向けたり、海岸の波打ち際のゴミのなかに何か面白いものはないかと漁ってみたりという程度のことです。


そんな海岸のゴミ漁りで奇怪なモノを見つけました。ペットボトルがたき火の熱で部分的に溶けて、砂や小石と合体した不思議なオブジェと化したモノです。
捨てられたプラスチック類は腐って分解して自然に帰すことながく、いつまでも醜い姿をさらしているので、普段は敬遠しているのですが、これを拾って眺めてみると、悪事を為した者が地獄の業火に焼かれて身悶えする姿にも見えます。まるで無表情な合成樹脂が火に焼かれることで命を得たかのようです。単純に「面白い」と感じました。
額をつくって納めてみると、地球の資源を浪費しまくる人類の罪を肩代わりして磔刑にかけられるキリストのようにも見えてきます。

これをアートワークとするつもりはさらさらありません。「美」とみるか「醜」とみるかも、もちろん人によってまちまちでしょう。所詮は心の問題なのですから。
ただ海岸で「汚いペットボトル」で済ませてしまったとしたら、発見から、いろいろ想像を逞しくして、額に入れるまでに経過した時間に感じたある種の充実感、あえて言えば「幸せ」な感覚は味わえなかったことは確かです。
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by love-all-life | 2013-09-15 17:02 | 文芸・アート | Comments(0)

この世は生きるに値する

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宮崎 駿さんが長編アニメ制作から引退するというニュースが各メディアで大きく報じられました。
おそらく黒澤明や小津安二郎の引退もこれほど大きく扱われなかったと思いますし、まして歴代総理大臣の引退などはこれに比べれば誠に貧弱な扱いです。
このことは、彼の去就が社会的にそれほどの大きなインパクトをもっているということであり、3歳の幼児から100歳の老人までが「エッ、ほんとう?」と等しく反応できる稀な出来事だったからでしょう。

誰もが「残念だねえ」と言いながら、その引退を惜しむこころの片隅でどこか清々しさのようなものを感じている風です。
世の中、何事も効率化がすすむなか、膨大なセルを一枚一枚描き重ねる手描きアニメにこだわり続けるひたむきさ。アニメを子供騙しの対極にまで高めようとする執念。作品に込めた社会的メッセージを美しさと温かさとユーモアに包んで提示する手腕。つねに全力投球する誠実さ。そしてしばしば見せるイタズラっ子のような笑顔。これらが一緒になって、人々は彼にある種の爽やかさを感じとるのでしょう。

末の孫娘が3歳の頃から遊びにくる度にせがまれて「魔女の宅急便」を一緒に見ていました。ビデオさえかけてやれば付き合う義理はないのですが、ついつい最後まで一緒に観てしまいます。20回は下らないと思いますが、何度観ても見飽きることはありません。そのディテールへの追求の深さ、人間にたいする洞察や自然への愛おしみなしには生まれない表現の密度に感服してしまうのです。
3歳児をして、毎度初めて観るように惹き付けてしまう作品の力こそ、その表現の密度の成せる技に違いありません。子供は決して騙されないものだと痛感します。

さて、あと10年は仕事をしたいという宮崎さんの今後がつい気になってしまいますが、そんな時も時「五輪開催地決定!」のビッグニュースが飛び込んできました。
「宮崎 駿を、第二回東京オリンピックの総監督に!」。ちょっと短絡的のような気がしないでもありませんが、運命的なタイミングを感じざるを得ません。

「この世は生きるに値する」と信ずるクリエイターに、近未来の日本を託してみたいとは思いませんか。

写真:朝日新聞
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by love-all-life | 2013-09-09 08:20 | 時事・社会 | Comments(0)

ストラディヴァリよりよい音を奏でる楽器

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旧友のKさんから素敵なYouTubeサイトのプレゼントが届きました。

南米パラグアイのカテウラ地区というところの貧しい村で生まれた、リサイクル・オーケストラのドキュメントです。
この地域は治安が悪く、パラグアイで最も危険な地域とされていてるようなところで、したがって人々の暮らしも貧しく、集積場のゴミから集めたペットボトルやビンを売ったり、リサイクル品をつくって生計を建てています。
子供たちの置かれている環境も劣悪で、勉強したり遊ぶ場所にも事欠く状況ですから、ましてクラシック音楽を楽しんだり学ぶことなどとはまったく縁遠い世界でした。「ヴァイオリンは家を買う以上に高い買物」なのです。

そんな村で、子供たちのために大人たちが指導して廃棄物から楽器をつくる運動がはじまりました。石油缶、廃材など、ありとあらゆる廃棄物を材料として集め加工して、チェロ、ヴァイオリン、クラリネットなど、オーケストラに必要な楽器を作るのです。
それらはチェロらしき音、ヴァイオリンらしき音、クラリネットらしき音を出す楽器らしきものであり、もちろんプロの演奏家の音とは異なっていますが、造形物としてのその姿には惚れ込んでしまいました。それらは大好きなポップアートの大御所クレス・オルデンバーグのジャイアント・ソフト・ドラムセットに負けないすばらしいモダンアートにさえ見えます。

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指導者のもとに自作の楽器をもった子供たちが集まってオーケストラを結成し、バッハやモーツアルトの曲を奏でます。
彼らの奏でる音楽は、当然のことながらウィーン・フィルのモーツアルトのようにはいかないとしても、それに勝るとも劣らない感動があります。
その感動はどこからくるか・・・
彼らが目にする楽譜には、汚され痛めつけられた地球、虐げられた子供たちの未来への「救い」と「希望」という特別の音譜がついているからなのだと感じました。

この感動を皆さんとシェアしたいと思います。
短いバージョンと長いバージョンがあります。ではClickしてお楽しみください。

The Landfill Harmonic Orchestra(short)

Landfill Harmonic Orchestra(long)
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by love-all-life | 2013-09-01 17:41 | 文芸・アート | Comments(2)