HAND & SOUL

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HAND & SOUL 近況

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先日M氏がぶらりと店に現れました。
M氏はジイジの高校時代の美術研究会からの長い付き合いで、今は高校の先輩後輩で開催する美術展のまとめ役としてお世話になっています。彼は傍ら写真を撮りますが、本人は謙遜していますがプロ顔負けの腕前です。
HAND & SOULの都内での展覧会にはいつも顔を出してくれて、たくさんの写真を撮って、あとで編集してPCで送ってくれます。それらはジイジの記録写真より数段レベルの高いものなのでHAND & SOULとしては大いに助かっています。
先日も店内を最新のデジカメで撮影したものを、早速、探訪写真集のサイトのカタチにして、当方と美術展の仲間に送ってくれました。

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ちっぽけな店内に所狭しと並べられた私たちの作品も彼の手にかかると、なんだか少しエラクなったようで嬉しくなり、辺鄙な場所にあるHAND & SOULを紹介するのに絶好の素材なのでブログで使わしていただく許可をM氏からもらいました。

最近のatelier shop HAND & SOULは、ま、ざっとこんな感じです。
このアドレスをクリックしてください。

Mさん、ありがとうございました。






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by LOVE-ALL-LIFE | 2014-06-29 10:21 | その他 | Comments(1)

ボールと鉄砲

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早朝目覚め、「ん?!」まだ「日本×コロンビア戦」やってるぞとテレビをつけました。ちょうど後半戦の開始でスコアは1ー1。一挙に寝ぼけ眼がドングリ眼へ(とはいかないのですが、精一杯見開きました)。
しかし日本は善戦したものの、やはり力の差はいかんともしがたく、結果は1−4、日本のワールドカップは終わりました。多くのサッカーファンはこれで目不足から解放され、これからしばらくは反省好きの日本人のことですから「日本サッカー」の反省点の指摘合戦が繰り広げられることでしょう。
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猛烈なサッカーファンというほどではない当方としても、ハラハラドキドキしながらTV観戦を大いに楽しみました。
「楽しみ」の中心は、言うまでもなく死闘をくりひろげる選手たちの運動能力の高さや目を見張るテクニックですが、また一喜一憂するそれぞれのサポーターの熱狂の情景も楽しく、とりわけ印象的だったのは埋め尽くされた観客席の色彩の豊かさでした。オリンピックの前夜祭などで派手なパフォーマンスがあるものの、何万という群衆が生み出すこれほどの華やかな色彩をかって観たことはありません。南米ブラジルで開催される大会ならではの明るさに満ちていました。
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さて、「楽しみ」というのではないのですが、観戦しながらしきりに思ったことは、「ボールを足で蹴るだけのことで人はなぜこれほど熱狂できるのだろうか」ということでした。
世界のトッププレーヤーのパフォーマンスのすばらしさ、4年に一度、歴史や伝統の重み、国の威信や愛国心などいろいろなファクターが重なった結果なのでしょうが、大部分の観客、スタンドの観客だけでなく世界中のTV観戦者にとって損にも得にもならないのに何故?
これに解答をだすのはそう簡単なことではありませんが、乱暴に言ってしまうとその理由は、人の行動や振る舞いは多くの場合理的な思考によってではなく感情で左右されるという「人間の性(サガ)」ではないでしょうか。
と考えてきてギョッとするのは「もしこれがボールでなく鉄砲だったら・・・」

集団的自衛権の案件をなんとか閣議決定に持ち込もうとする安倍政権の、机上の理屈に理屈の積み重ねにどれほどの意味があるのか疑問を持たざるを得ません。安倍首相は「実戦に持ち込むことはしない」、「きわめて限定的」などと本心を押し隠そうとしていますが、日本の戦力を活性化しようとする本音は隠しようもありません。戦争の匂いで経済を活性化しようという密かな下心があるのではと勘ぐってみたくもなります。
戦争はいつも、敵をつくり、疑心暗鬼を造成し、正義を振りかざし、愛国心を煽る為政者によって引き起こされます。そのきっかけは一発の銃声で十分です。そして、一旦銃の引き金が引かれてしまうと人々は熱狂し、若者は愛国心と憎悪にまみれて戦地へ向かうのです。

熱狂の対象はくれぐれもサッカーボール止まりにして欲しいものです。









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by LOVE-ALL-LIFE | 2014-06-25 13:02 | 時事・社会 | Comments(1)

「たからモノ」がたり 1 <東京オリンピック入場券>


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HAND & SOULにみえたお客様で出版関係のお仕事をしているKさんから、いま企画している本のための取材をしたいと声をかけていただきました。
Kさんのテーマは「箱」で、いろいろな人が大事にしている「箱」を取材して、「箱」にまつわる物語や魅力や魔力をまとめてみたいという趣旨でした。
箱といっても当方の箱といえば、長年にわって集め溜め込んだガラクタを投げ込んだ汚い箱ばかりですよとお話ししたのですが、それでもよいということなので取材していただくことになりました。
撮影の前日に溜め込んだしょうもないJUNK類の入った箱を、押し入れや戸棚の奥から引っ張りだし、中身を改めると、30年、40年、50年という過ぎ去った時間が現在形で転がり出てきます。
撮影当日、KさんとカメラマンのTさんが「箱」をそっちのけで中のガラクタをおもしろがるのを見て、これらのモノたちをひとつづつ取り上げるブログも「アリかな」とのアイディアが浮かびました。


そこで第一回目です、初回で取り上げるのは「東京オリンピックの入場券」です。2020年の東京オリンピックの入場券をいち早く確保したというお話ではありません。50年前の1964年東京オリンピックの入場券のことです。それも未使用なのでちょっとしたレアものの類いといえます。50年前に購入し採っておいたものというより、使えなくなったチケットがそのまま放っておかれて50年たってしまったものなのです。

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このチケットは1964年10月11日駒沢陸上競技場のサッカーの試合の観戦チケットです。
北朝鮮の出場試合ですが、対戦相手国がどこだったか記憶がありません。Wikipediaで調べてみるとハンガリー、ユーゴースラビア、モロッコのいずれかですが、いずれにせよ実現しなかったゲームです。
というのも、出場予定の北朝鮮は試合の直前になって失格となり、選手団が帰国してしまったのです。その結果チケットは無効となりました。もちろん直後には払い戻しもできたのですが、無精もののジイジが怠けていたため未使用のまま生き残ったというわけです。
北朝鮮が失格となった理由は、同国の陸上競技と水泳競技選手が非承認の競技大会に出場したということなのです。なぜそれがペナルティの対象になったのか詳しくはわかりません。サッカー競技ではチームにプロの選手がいたということでイタリアが出場停止となったりしていて、時代の差を感じます。

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手もとのチケットのデザインは、日本を代表するグラフィック・デザイナー故亀倉雄策のシンボルマーク・デザインが汎用されておりなかなかスマートです。
中央のサッカー・ゲームであることをわからせるパターンは、英語表記に弱い当時の日本人のために初めて日本の国際競技に採用されたピクトグラム(絵文字)です。
チケットの半券(もぎられる部分)は3つに分かれていて、ゲート(門)と、エントランス(入口)で2回もぎられ、席の部分だけが手もとに残ることなっていて、なんだかすごく厳重な感じです。
開催競技場である駒沢陸上競技場の収容人数は約2万人ですから、次期東京オリンピックのメーン・スタジアムが8万人収容であることを考えると、オリンピックも随分スケールアップしたものだと思います。
因に、このチケットにはどこにも「サッカー」という文字が見当たりません、「蹴球」か「FOOTBOLL」です。次の東京オリンピックでも「サッカー」という文字は使われないのでしょうか。
一緒に画像に入っているコインは、当時発行された100円の記念硬貨です。こんなものまでとっておいたのですから、ずいぶんオリンピックに熱くなっていたいたものです。

当時夢中になって白黒テレビで観戦し、その後映画やビデオで何回も観、東京を、日本をすっかり変えてしまった、遥かなるなつかしい東京オリンピックの生の姿の一片が、偶然のこととはいえいま手の中にあります。
2020年の東京オリンピックを自分の目で観ることが危うい歳であることを思うと、自分がやはり「あのオリンピック」世代の人間なのだということを改めて認識し、ほろ苦い感じです。









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by LOVE-ALL-LIFE | 2014-06-14 21:22 | Comments(0)

あめあめ ふれふれ

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関東地方も梅雨入りしたとの報道通り昨日から間断なく雨が降っています。
一両日前から、テレビでは四万十川の濁流の様子や、各地の降りしきる雨の映像を報じながら、大雨による被害への警戒を呼びかけています。
今朝は起き抜けの8時ころ電話が鳴って、孫の中学校での今日の行事が中止になったとの連絡電話が入り、鎌倉市の町内放送のスピーカーが大雨警戒警報を告げています。
これだけ雨への警戒を促されれば誰だって家に閉じこもっているだろうと、いつも長時間待たされる皮膚科医院へ今日こそは空いていると見込んで出かけることにました。
傘、ゴム靴、ジャンパーに身を固め外へ出てみると、雨は降っているものの、「何これ? 雨って、こういうものじゃないの」という程度の小降りでやや拍子抜けです。
往来を歩いている人はいつもより少ないものの、空いていると見込んだ医院の待合室は人で溢れ3時間も待たされてしまいました。

待たされている間つらつら思ったことは「ちょっと脅かし過ぎだな」という感慨でした。
世の中なにごとも「安全第一」で、「危険は遠ざけるもの」になりすぎているのではないかと感じるのです。過保護には「落とし穴」があるような気がしてなりません。
度重なる自然災害から得た教訓としての防災意識の喚起は大切であることに異を唱えるつもりはありません。
しかし今朝の体験から、危険排除がいき過ぎると、この世の自然現象を、危険なもの避けるべきリスクととらえる子供たちが育ってしまうことになりはしないかと心配です。
自然への「親しみ」と、自然への「警戒」のバランスが大切なのではないでしょうか。
まず「親しみ」があって、その経験のなかから「警戒」も身につけるという流れであって欲しいと思うのです。まず「警戒」ありきでは、決して自然に「親しむ」子どもは現れてこないのではないかと危惧するのです。
家の中で窓ガラス越しに雨を恨めしく思ったり、怖いと感じる子どもばかりになるのは悲しいことです。

あめあめ ふれふれ  かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン


かえるのうたが
きこえてくるよ
クヮ クヮ クヮ クヮ
ケロ ケロ ケロ ケロ
クヮクヮクヮ

近頃の児童の教科書にこのような唱歌を見いだすことはありません。
自然を歌い、自然を描き、自然を嗅ぎ、自然に直に触れることで、自然の多面性を身体で覚えていく、その過程で健全な防災意識も身につくと思うのです。










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by LOVE-ALL-LIFE | 2014-06-07 18:32 | 時事・社会 | Comments(0)