HAND & SOUL「モノ」がたり (126) 「ボブ・ディランのポスター」
13日夜リビングルームでテレビを観ていて「2016年のノーベル文学賞はボブ・ディラン氏に決定」のニュースに、思わず壁に掛けてあるボブ・ディランのポスターに「乾杯!」のエールを捧げました。
日本での大方の関心が村上春樹の受賞成るかに向けられていただけに、一瞬の意外感はあったものの、次の瞬間に「うん、なるほど」と納得した人は少なくなかったのではないでしょうか。
20世紀後半から今世紀にかけて、これほど多く詠われ、地域を越えて人々の考え方や、行動に少なからざる影響を与えた「詩」があっただろうかと考えると、多分この文学賞を決めた後に起るであろう反発も織り込み済みで賞を決定した審査員にも賞をあげたくなりました。
1967年、外資系広告代理店で駆け出しのアートディレクターだったボクは、思いがけなくも提携しているニューヨークの広告代理店で研修するよう命じられました。当時先進的とされていたアメリカの広告づくりの現場を見てこいとのことでした。
自分の英語能力のへの大きな不安と、憧れのハリウッド映画の世界に直に触れることへの大きな期待、両方を携えての初めての海外旅行でした。
ニューヨークに降り立った第一印象は「あっ、見たことがある!」という既視感でしたが、肌に触れる大気の感触、匂い、地鳴りのような遠い音、聞き慣れない街の喧噪やすぐ近くの会話の声などが加わることで成り立つ臨場感はスクリーンの世界とはまったく異なった、「来たのだ」という気持ちの高まりを呼び起こしました。
いざマンハッタンの街を歩くと、既に爛熟期に入っていたアメリカの消費社会に反発するヒッピーたちの姿をいたるとこで見かけましたし、セントラル・パークやワシントンスクエアーではベトナム戦争に反対する長髪の若者達がたむろしてしていて、彼ら周囲のいたるところにピースマークやマリワナのビジュアルシンボルがちらちらしていました。ところがある日曜日の五番街で行われた在郷軍人会が主催したデモはベトナム戦争支援を標榜し、「WE PROUD OUR SON IN BIETNAM.」と大書した横断幕を通り一杯に掲げて延々と続く長蛇の大パレードでした。こうした一筋縄では行かないアメリカの混沌や矛盾や苦悩をややけだるい旋律と詩で歌い上げたのがボブ・ディランの「Blowin’ In The Wind」で、いまでも当時を懐かしむボクの思い出のニューヨークではいつもこの曲が流れています。
世話をしてくれるクリエイティブ・ディレクターの秘書が用意してくれるスケジュールに沿って、アートディレクターやコピーライターたちと会って質問したり、プレゼンテーションを受けたり、社内会議やクライエントへのプレゼンテーションを傍聴したり、コマーシャル製作の現場を見学したりといった日々でしたが、希望すれば美術館巡りをしたり、見学と称して、急遽呼び寄せた妻の三重子を伴ってデパートやファッションスポットやギャラリーを徘徊したりと、かなり自由気ままな行動も大目に見てもらえました。
そんなある日、ボクがニューヨーク流おしゃれを最も体現していると感じて大好きだったプッシュピン・スタジオを紹介状をもらって訪れました。社長のミルトン・グレーサーに迎えられて、スタジオを案内してもらい、ポール・デービスやシーモア・クワストなど、日本ではなけなしのお金をはたいて買った洋書のページでしかお目にかかれなかったあこがれのアーティストたちに会って直に話を聞き、こちらの英語能力から多分半分くらいしか理解できなかったとしても、残りの半分を想像力で膨らませて、満ち足りた時間を過しました。
見学を終え別れ際にミルトン・グレーサーが、スタジオでデザインした代表的なポスター10数枚をぐるぐると巻いてお土産に手渡してくれました。そしてそのなかにボクが大好きなボブ・ディランのポスターが入っていたのです!
以来50年間、ニューヨークから東京の事務所、鎌倉の自宅、その後新潟へ、再び鎌倉へと、いつもボクの暮らしのスペースのどこかに掲げてきたのがミルトン・グレーサー作のこのボブ・ディランのポスターであり、それ故にこれはボクの青春の一部なのです。
ボクが今年のノーベル文学賞の発表でポスターのボブ・ディランに向かって乾杯した気持ちがわかるでしょ。
by love-all-life
| 2016-10-16 12:00
| 「モノ」がたり